Mini  Essey    ミニ エッセイ  人は何のために生きるのか

アドニア

 ある日、次女から”昨夜ね、天国でおばあちゃんに会ったの! 思ってたより若かったよ!”と電話がありました。次女は教師養成学校から与えられた半年の実習休暇を利用して、三重県の日本語学校に入学。通学のために母と叔母にお世話になったのですが、それは20数年前のことでした。その後、
次女は新婚旅行の時に母と会ったのですが、その時の母のイメージが脳裏に刻まれていたのでしょう。

 母に会った話に続き、”週末に、町の公会堂で『アドニア』の新しいミュージカル公演があるから観にきてね! 席は取っておくからね!”との招きがありました。

 それで、次女の娘ラティーシャが出演するミュージカル「エズラ、新しい出発」を観に行きました。テーマは旧約聖書の”エズラ記”から取られ、音楽的にも完成度の高い素晴らしいミュージカルで深い感銘を受けました。

 スイスには、ティーンエイジャーや若者を対象とした『Adonia』というキリスト教団体があって、聖書にまつわる様々なミュージカルをスイス全土で展開していますが、春休みや夏休みには合宿があり、合宿の間、コーラスやダンスの練習をし、その成果をスイス各地において披露します。アドニアの合宿にはクリスチャンファミリーのみならず一般の家庭からも多くの若者が参加します。

 『アドニア』は、類(たぐ)い稀(まれ)な音楽的才能を与えられた中学教師のマルコス・ホッティガー氏が、もう30年以上も前に始められた働きです。 私たちの娘たちも参加しましたが、様々な誘惑に翻弄され、道を外す危険性の多い環境下にあるティーンエイジャーに、キリスト教をベースにした健康的な雰囲気の中で、良い友達を作り、友情を育くみ、健全な成長を助けるものとして長年活動
しているのです。このように信仰をベースにし、若者を対象にした働きがスイスという国に根付いていることは、何という感謝なことでしょう。

母とはそういうもの

 2023年1月23日、最後まで母に愛を注ぎ寄り添ってくれた50年来の郷里の親友から、母が2年前から入院していた病院の看護婦NさんのSNSが転送されてきました。

「昨夜18時頃に病院へ行く用事があり、気になって幸代子さんの病室に寄って来ました。酸素、点滴をしながら、一生懸命に頑張っている姿があり、お名前を呼んだ時、返事をしそうな穏やかなお顔でした。

 

 素晴らしいお母さんであり、人生を頑張られた幸代子さん、最後にお顔を見ることができ幸せでした。幸代子さん、本当にお疲れ様でした。コロナ禍で、ご家族の方が、幸代子さんと、ご対面が出来なかった事は、職員一同とても心苦しく思っておりました。心よりお詫び申し上げます。」

 郷里の友AさんからN看護婦への返信:
 「本当に、優しいお心遣い細やかな、素敵なお母様で残念でなりません。最後に、いつも優しくお心をこめ、お母様を支えて下さったN様に見守られ、旅立たれたことが何よりだったことでしょう。本当に長い間、ありがとうございまた。」

 故郷の親友Aさんから私へ:
 「幸二さん、お母様がいてくださると思うだけで、心が温かくなられたのに、本当に寂しくなられましたね。きっと、直ぐそこで、幸二さんやご家族の事を見守ってくださっています!お母様が幸二さんのお話をされる時、いつも瞳が輝いていました!幸二さんは、お母様の自慢の御子息様で親孝行を一杯されたと思います。私も今は心にいらっしゃるお母様といっぱい思い出話をお話しします。」

 故郷の親友Aさんからの追伸:
 「お母様は、幸二さんのお手紙、日本のおばあちゃんにと一生懸命描いた曾孫様の絵、そして、大きくなった松林家の皆様のお写真と一緒に、天に旅立たれました。青谷(火葬場)の係りの方が、「こんな可愛い曾孫さんやお孫さん達と一緒に行かれるの!お幸せやなぁ!」と、話されていました。お母様はきっと、幸二さんの気持ちを一番良くわかってくださっていました。母とはそういうものです。大丈夫!」

 逝く前に、苦労に苦労を重ねた母をしっかり抱きしめて、親不孝を詫び、感謝を伝えたいという願いは、肉親の面会さえ許さぬという非情で過酷なコロナ禍の規制によって、ついに叶えられませんでした。母は私が信じる同じ神様を信じてくれていたのか定かではありませんが、私たちの祈りが神様に通じていて母を引き上げて、み胸に抱いてくださっていることを心より願い、天の御国における再会を願う毎日です。

私があなたにできることをお示しください。

 妻の40数年来の無二の親友のルツ(Ruth)さんは、東スイスにあるソーシャルワークの学校時代から、快活かつ頭脳明晰で、つねにリーダーシップを発揮して学友から慕われ愛されてきました。
 
 卒業して30年後、広い庭のついた大きな家を、ある未亡人から廉価で譲り受け、キリストの愛をベースにしたグループホームとし、障害を持った子供や身寄りのない大人を引き受けてきました。そのビジョンを広めようとした矢先に、パーキンソン氏病という病魔に襲われたのです。

 初秋に、ルツさんが入居する介護施設に、多くがクリスチャンの学友達(40年来、毎年同窓会を開き、今回も19名のうち14名がスイス中から)集まりました。
 
 ルツさんの同室には、88歳になる知的障害をもった老婦人が入居していますが、誰も引き取らない彼女をルツさんはルームメートとして受け入れ、不自由な体で昼夜、彼女のお世話をしています。

 ルツさんは、毎朝起きると「神様、今日、私があなたにできることをお示しください。」と祈るのです。ルツさんを見舞った私たちは、彼女から逆に励ましと慰めを受け、あったかい心で帰途についたのでした。

 私たちがルツさんを訪問した翌日、彼女からSNSが入りました。”Kojiたちと共に過ごした時間は、なんて素敵だったことでしょう! たいてい、看護スタッフの幾人かは、私の訪問者が誰であったかを尋ねてきます。(私は看護スタッフととても親しくしているので、、)それで、二人のなれそめを若い看護スタッフに話してあげたのです。彼女たちは、今の時代にそんな関係が実在するなんて何て素敵なんでしょう!と感動を隠しませんでした。だって、あなたたち二人と一緒にいるとき、本当に、私の心が和らぐのですから、、、。” ルツより。

センティス登頂記

スイスにしては珍しく暑く好天の続いた今年の夏は突然に終わりを告げ、秋が戸口までやってきています。

 この夏も、私達は6人の孫を交互に迎え、老骨に鞭打って、相手をいたしましたが、孫も成長すると祖父母の所にはやって来なくなるといいますので、喜んで泊りがけでやってくる間は、すべてのことを脇に置いて相手をしてやろうと考えています。

 孫との奮闘を若い信仰の友に話すと、「祖父母によくしてもらった体験が、今でも自分の人生に大きな影響を与えていると思います。僕も小さい時におじいちゃんにたくさん遊んでもらって、今の自分があると思っています。40年以上教壇に立っていた祖父母は厳しい人でしたが、おじいちゃんとの思い出は言葉にならない幸せな感情を生みます。松林さんのお孫さん達も30年後にはそのように思うんだろうなと確信しています。」と心のこもった返事でした。

 この夏のハイライトは、東スイスの最高峰センティス2501m への登頂で、長女の息子のエリーシャけんじの夢を叶えたことでした。6月に12歳を迎えた誕生日のお祝いに一緒に登頂するという約束を、やっと果たすことが出来、本人も大喜びでしたがかなり危険な岩壁をたくさん登ることになるので、私たちの責任も重大でした。でも、天候にも恵まれ、無事に下りた時の安堵は何にも替えがたいものでした。

その時の動画です。(3分44秒)
https://www.youtube.com/watch?v=QALgJPewrnw
 

南アフリカに娘の義父母を訪ねて

 南アフリカの最南端、ケープタウンから東へ390km進むと末娘の夫デリックさんのご両親が住まわれるMosselbayという雄大なインド洋に面する美しい地に着きます。宣教師であったご両親は首都プレトリアで、17年前に酷い交通事故 (酔っ払い運転の警官の車に交差点で突っ込まれた) に遭い 、瀕死の重傷を負い(医者は助かる可能性はほぼないとのことでしたが)父親は九死に一生を得て3ヶ月後に昏睡状態から目覚めましたが、記憶は失われ、両親とも体にも重い障害を負ってしまいました。

 障がい者となった両親のために、デリックさんと末娘は、両親 の住む地で結婚式をあげることを計画しました。ところが2年前、 南アフリカでもロックダウンが始まり式は挙行不能となってしま ったのです。そのうち、結婚式業者が倒産してしまい払い込んだ 大金は一円も戻りませんでした。

 それから2年後の今年4月、インド洋を見下ろす絶景の地に、私たちだけを連れ、1ヶ月も案内してくれたデリックさんの優しさと愛に感動の連続でした。かって宣教師として南アフリカはおろか 世界中を飛び回っておられた優しいご両親にお会いして、デリック さんの思いやり深い優しい性格が形成された理由がよ
く理解出来ました。

 共に重い障害(お母さんは右手の指3本が使えるのみ)を負う ご両親が一軒家で助け合いながら生活をしておられる姿に感銘を 受けた後、私たちはヨハネスブルグに飛びました。楽しみにしていた旅のクライマックスであるクルーガー国立公園(南北360km、 東西65kmの四国ほどの広さを誇る野生生物の宝庫)で4日間 を過ごしたことも生涯忘れ得ない、生きている内に夢が叶うなどとは思ってもみなかった神様からのプレゼントでした。

人生において家族とは

  ”僕の誕生祝いにこんな素敵なバースデーランチを企画してくれて感謝です。 美味しい料理と家族との交わりを心の底から楽しみました。 温かい言葉と聖書の一節(私のお気に入り
の一つです)もありがとうございました。

 

 僕はあなたの家族の一員であり、義理の息子であり、愛娘の夫であり、貴方の孫の父親であることでとても祝福されています。あなたがたが私の人生の一部になってくれたことで、僕の人生はより豊かに祝福されたものとなりました。”      デリックより

  末娘の夫デリックさんの40歳の誕生祝いが我が家で開かれました。デリックさんの両親と姉妹は南アフリカ、兄弟はカナダとベルギーに住んでいるので、当然、共に祝えず、スイスには共に祝ってくれる肉親がいないので、私たちが新し
い親になろうと意図した企画でした。

 実は、2週間前に同じ企画で、長女と次女家族総勢10人が、彼の誕生日を祝いに我が家に集まったのですが、肝心のデリックさんは末娘と親友の結婚パーティーでコロナ菌をもらって自宅隔離になってしまいました。何と自分の誕生祝いなの
に出られないという主人公不在の事態となりました。

 娘たちは直ちにイベルメクチンを摂ったのと、若い世代で少し熱が出た程度の軽症で終わり、幸い後遺症も全くなく、当日はすっかり元気になり、期せず2度目の誕生祝いとなりました。

 義理の息子から届いたメールは、人生における家族というものの大切さと、家族がイエス様にあって愛し支え合うという神からいただいた祝福を味わう機会が与えられ、胸を熱くしました。

もし、生きた母に会えたなら

「おはようございます。○○病院の看護師の○○です。宜しくお願いします。今、こちらは朝の7時です。遅くなり、すみませんでした。いつも、お手紙を有り難う御座います。」

 2月上旬のある朝に突然こんな書き出しのSNSが飛び込んできました。母が脳溢血で入院して早一年が経っていました。

 「お母様は、お手紙を読むとき、コウジさんのお名前を言うだけで、泣かれます。お手紙を読むと、目を開けてじっと聞いておられます。元気になってコウジさんの所へ行きたいね!と言うと頷いています。今は特に、問題なく過ごされています。言葉が所々解りにくい時もありますが、お返事は、しっかりとされます。本当にお人柄の良い方ですね。又、時々、連絡させて頂きます。」というメッセージでした。

 私はこう返信を致しました。
 
 「○○様、お心のこもった優しいお返事を感謝します。いつも、病院の皆さまにご迷惑をお掛けしているのではと恐る恐る投函していた母への便りですが、今日は雪の中晴れ晴れとして投函させていただきました。感謝です。
 

 お送りくださった母の写真に半時間ほど泣きました。近くに居れば、毎日でも会いに行きたいと願わされました。祖父の借金のため(保証人となったため)尋常2年までしか学校に行けず奉公にだされ、家族のために自分を犠牲にして、昼夜身を粉にして働き続け、全てを捧げてきた母がこんな最後を迎えていいはずはないと信じてきました。
 ○○さんの温かな思いやりに心から感謝しております。祝福された良き一日をお過ごしください。           松林幸二郎」

 肉親でさえ患者に面会できないという非情なコロナ規制が敷かれて2年になります。病院の近くに住む叔母でさえ面会は御法度ですから、母の状態はまったく分からず、このまま孤独の寂寥感に苛まれる日々から解放されるために早く逝かせてやりたいと願ったこともありました。
 
 もう生きた母に会うこともないだろう、と少しも規制解除の様子を見せない母国ゆえ、観念しておりましたが、生きた母に会えるのでは、、という希望が湧いてきました。もし神様がそれを許してくださるなら、母をしっかり抱きしめて”母さん、親不孝ばかりしてきてごめんね。僕の信じている神様を信じて天国で一緒に暮らそう!”と語ろうと考えています。

シュワちゃんに会う

 自然豊かな山岳地が連なる東スイスのトーゲンブルグ地方に聳えるケーザーリュック Chäserrugg 2262mには年に一度は登ることにしています。南には雪が残る中央アルプスの高峰を臨むパノラマ、眼下には氷河から流れ出た水を湛え、どこまでも碧いヴァーレン湖を目眩がするほどの高所から見下ろすことが出来ます。(別便にて写真をお送りしますので、想像して頂
けると思います。)

 晩夏の晴れ上がった美しい日に、私たちは頂上を目指して登っていましたが、中腹の小屋の前に立つシュワちゃん(シュワルツェネッガー)の容貌に似たところのあるドイツ人に出会いました。彼はなんとハンブルグから歩いて南下し、オーストリアを経て、ここまで4ヶ月かけて来たとのことでした。え〜、歩いてここまで!驚異的な体力と精神力はどこから、、と、驚きを通り越して唖然とさせられました。

 彼は4ヶ月の間、歩きながら何を思い考え、どこに寝泊まりし、出会う人々とどんな会話をしたのだろうと、自分が若かりし日に4つの大陸をリュック一つで放浪の旅をしたことを思いだし、想像しました。

”これから、アフリカまで歩いて行くのか?”と尋ねたら、"いや来週、ハンブルグへ帰る"と言っていました。ハンブルグからここまでどれぐらいあるのか、家に帰って調べたら950kmとありました。

”僕も若い頃、3年半、ヒッチハイクで世界を旅した。”と言ったら、シュワちゃんは、”それはクールだ!僕も一度やってみたい”と感心されましたが、、。山で出会う人々はおおむね陽気で、こんな楽しい出会いもあり、この年齢になっても神様が私達に6−7時間の山登りができる体力と気力をお与え下さっていることに感謝した1日でした。

大雪の中で

 感染予防の規制が厳しくなり、友人家族との交わりはおろか、家族ですら集まる人数を気にしなければならなくなりました。

 昨年の秋、私たちと一緒に感染し、現在は抗体を持っている次女は4人家族で、厳密には制限人数以上になりましたが、孫娘ラティーシャあゆみの11歳の誕生日を、好物の餃子と唐揚げの”オヤジの料理”で我が家で祝うことになりました。昨年までは雪の上でソリやかまくら作りにと嬉々として遊んでいたラティーシャは、好天をよそに居間の片隅で本を読むティーンエイジャーに近づいた、頰の赤い少女となっていました。

 11年前のこの日、誕生祝いの日のように大雪の日で、その3日前、私はカントリースキー事故での大腿骨骨折で州立病院に入院中、ラティーシャは早産で黄疸が出て、このままでは生命が危険ということで、サンクトガーレンの子ども病院に搬送されました。家内は3つの病院を雪の中走り回ることになりました。ラティーシャは、小柄な体つきなのですが、スポーツが得意で好奇心旺盛な少女に成長し、私も手術後、痛みを覚えることもなく、その年の秋には好きな山登りを再開していました。

 子供が健康に成長するのは当たり前のようですが、親と周囲にどれほどの忍耐と時間と愛情が必要なことでしょう!何よりも暖かで健全な価値観を持つ両親が、尊重し合い愛し合うクリスチャンの家庭が子どもの成長には絶対欠かせないと次女家族を見て思い、ここまで導いて下さった主に深く感謝した次第です。

コロナ感染記

 コロナとは一番無縁に思われる山里の暮らしをしていた私たちが、決して無縁でなかったと思い知ったのが、孫の誕生祝いで、次女の義父からしっかりコロナのプレゼントをいただいた時です。感染から5日ほどは無症状で、3日目に孫の希望を叶えるため厳寒の1600メートルの山に急テンポで登り、帰宅後、立ち上がれないほどの疲れを覚えましたが、今思えばそれが前兆だったようです。


 症状の出始めは感染から5−6日目で、風邪の症状と酷似していますので、それがコロナ感染の症状であると気づいたときは、坂を転がるように着替えも歯磨きも出来ないぐらいの酷い疲労感に襲われ、1週間は昼夜臥していました。
 幸い妻は私ほど症状が悪化しなかったので、私の看病にあたってくれました。また、我が家から20m先に日本人女性のYさんが住んでいらして、ときには和食を届けてくださいましたが、味覚とともに食欲の減退した私たちの体に、さつま揚げなどの差し入れは、愛が感じられてそれは感謝でした。
 

 同時に一家感染した次女に聞いてみると、子供達は嘔吐と下痢がひどかったようです。味覚と臭覚が落ちるのもコロナの特徴でした。ただ人によって症状は異なり、若い次女夫婦は症状も我々ほど重くはなく回復も比較的早かったようです。私たちは感染したことが分かっていたので、PCR検査も受けず、病院の厄介になることを避けることができました。その後、後遺症で嗅覚、味覚が阻害され、疲れの感じる時期がしばらく続きましたが、現在では、時間と天候が許
される限り3−4時間の山登りをして体力の回復を図ることができていて感謝です。

 相手が見えないコロナですので対策は限られてきますが、むやみに怖がらず正しく怖がることが必要かと思います。感染は辛いことに違いありませんが、私は感染したことによって、コロナの実態を知るとともに、感染患者の身の辛さや心
理を知ることも出来て、益だったと感謝しております。

 

葡萄畑の中の結婚式

 お転婆で活発な末娘の結婚は三人娘のうちで一番早いのではと、誰もが予想していたのですが結局は最後で、40歳に手が届くところでの結婚と、大方の予想を裏切ることとなりました。新郎の国、南アフリカで4月10日に結婚式が予定されていましたが、帰郷中にコロナ禍でロックダウンとな り、南アフリカから間一髪で出国し、末娘の誕生日当日、6月15日にEU間の国境も開かれ、スイスへの入国がやっと許されました。

  その2ヶ月後、チューリッヒ市からやっと出た婚姻許可により、市役所での法的手続き後、8月13日、ブドウ園の中に造られた素朴な宴会場で結婚の宴が催されました。三人娘の中で一番心配させられた末娘 は、30歳になってイエス 様を信じ従う決心が与えられ救われました。親と して末娘の新生に大喜びしたのもつかの間、シングルマザーの小学校教員として、大きな病さえ経験し、 ハラハラドキドキの波瀾万丈な人生が続きました。
 
 主は祈りに応えてくださり、3歳男子とその母親でもある末娘を愛で以って受け入れてくれる 素晴らしいキリスト者の男性に導いてくださいました。宣教師で ある新郎のご両親は、南アフリカで15年前に酔っ払い運転の車に突っ込まれ酷い 交通事故に 遭い九死に一生を得ましたが、6人兄姉の4番目   の子 としての新郎には、 言葉に表せぬ 苦労を通して、キリストにも似た謙虚で思いやりに溢れた性格が形成されたように思います。  
 
 夏の斜光に美しく輝くブドウ畑の中、身内と親友だけの手作りのささやかな、
しかし、心の籠った愛に溢れる宴となりました。三人の娘がそれぞれ    クリスチャンファミリーを築いていってくれるのは、何にもまして神様からの祝福で、いくら感謝してもしきれない思いでいます。

コロナ禍のなかで

 「買い物など、いつでも言ってね!」と、コロナ禍発生後、日課にしている朝の山歩きから戻ると隣近所から声が掛かります。引っ越して3年ばかりなのに、リク・グループに入る私たちにはありがたい隣人愛です。週の半分を孫の世話に費やし、退職後も多忙な生活 だったのが、突然日常に変革が起き、夫婦二人の静かな生活
となりました。4月に予定されていた末娘の結婚式も南アフリカ旅行もキャンセルとなりました。孫や娘たちとはFace Timeを通して対面しています。抱きしめられない寂しさはあるが、家族の絆の大切さとぬくもりを痛切に感じています。 コロナ禍は、確かにプラスの面をも社会生活にもたら しているよう です。

 収束の先が見えない禍は、人を不安のどん底に落としめます。いままで当たり前だったことが、一方的な神様からの恵みであったことに私たちは気づかされます。これまで人類が追い求めてきた富や豊かさ、大量消費社会やクルーズ船に代表されるマス・ツーリズムによる地球・環境破壊の愚かさを人類は痛切に気づかされたと思います。このコロナ禍の収束の先にあるのは、絶望だろうか、希望だろうか、と考えます。遠出が出来なくなって、 神様が創造された地元の自然の豊かさと稀有な美しさを再発見する日々です。

 感染者減少の傾向をうけて、スイスでは明日から小学校が始まり、商店やレストランの営業も再開され、すこしばかり緊張感が緩んできたのを感じます。社会が経済が壊滅的打撃を受ける前に、主よ、この災厄を終わらせたまえと祈る日々です。

子は親の後ろ姿を見て育つ

 藁葺きの泥と牛糞で作られた”家”に住むアストリットさんの日常は、朝5時のモシェーからの祈祷の呼びかけで始まる。起床後、近くの小高い山に登り、デボーションで祈りの時を持ったのち帰宅すると家の前には、マラリアほかさまざまな疾患をもった患者が戸口の前に列をなし、スイス人の看護師アストリットさんの治療を待っている。病院などの医療施設は大きな町にしかなく、移動手段を持たない付近の村人は、唯一の看護師の元に遠くから近くから徒歩でやってくる。
 
 アストリットさんは限られた医薬品で、精一杯の愛を注ぎ、祈りつつ治療にあたっていく。時には、彼女の祈りで、神様が子供のてんかんを癒す奇跡も起きる西アフリカのギネアの部落に2年前から一人で住む次女のことを、自らも5年間農業指導で暮らしたこともある母教会の長老ベルガーさんご夫婦が我が家の食卓で話してくれました。
  
 アストリットさんは、ギネアの人々のために汗を流す両親を訪問したとき、村人たちの暮らしに心奪われ、イエス様が彼女に望んでおられる場所はここだと確信したそうです。仲間を募ったけれど応募する者はいず、一人でやってきたとのことですが、多くの人が危惧するような危害を与えられることもなく、今では、モスレムの村人や村長にもすっかり信頼されています。村長は、あの女性は異教徒ではあるが、神の命令を守り、その道を忠実に歩いているのだから絶対に危害を加えてならないと命じているとのことです。アストリットさんは、時には地域のモスレム指導者とモーゼや聖書の話をして   くるそうです。
 
 私たちも幼児の頃から知る6人の子供(うち3人はエチオピアや東欧で貧しい人のために日夜働いています。)を育て上げてきたベルガーご夫妻、、。子供は親の後ろ姿を見て育つという日本の諺を思い出し、その志と勇気、深い愛をお与え下さった神に心から感謝する一夜となりました。そして、一人の日本人女性を救いに導いた(スイスで住むところがなくて弱っていた女性を自分のアパートに無償で住まわせた)アストリットさんが、これからもイエスさまの香りを放ち、イスラム教徒の方々も真実の神様を知ることができるよう共に祈りました。

100食の和食ランチ

「近隣の住民をお招きして伝道礼拝を捧げたいと思っている。テーマは、日本語”福”に因んだもので、できたら足を運んでくださった方々に和食ランチを供したいのだけれど、コージ、100人分のランチを調理できるだろうか?」と、母教会であるサンクトガーレン市FEG(自由福音キリスト教会)の長老ベルガーさんに尋ねられ、100人前を超える日本食を料理したのは10年近く前のことであったので、考えさせて欲しいと返事は保留にいたしました。

 母教会では、8月から日本で宣教師として日本人と日本を愛して17年間
働いてきたベルチ宣教師が牧師として就任しました。その前から、Open 
Houseと名付けて移民の多い地域で放課後に子供達の宿題をみたり遊び場
を提供して、地域との繋がりを大切にして地道な愛の実践を続けてきました。
 また長老のベルガーさんとの繋がりは40年近くになり、6人の父親である彼は州政府の農林省のトップでありながら、定年まで5年を残し、アフリカ西海岸ギニアまで、伴侶とともに無報酬の農業指導に赴き、数年前に帰国されましたが、キリストの愛を実践しその人格やへりくだった姿にイエスさまの似姿を見て、私たちはベルガー夫妻を深く尊敬してきました。
 
 いつも私たちを温かく歓迎してくれる教会員や、ベルガー夫妻に、その恩
に少しでも報いたく思い、11月24日に100人分の和食ランチを調理する
ことにしました。メニューは、太巻き寿司、串カツ、唐揚げとすぐに決まり
ましたが、果たして二人で11時過ぎまでに出来るだろうかと、正直、不安
に思っていました。しかし、神さまは、我が家から20m先に住む調理に秀
でた日本人女性Yさんとスイス人のご主人Pさんを強力な助け人として備えて
おいてくださったのです!


 実際、この二人の献身的な協力なしには16kgに及ぶ鶏もも肉と豚肉を、11時までに調理することは不可能だったと思います。その日、 伝道礼拝に来られたお客さんは、私たちが心を込めて調理した和食を大いに喜んでくださり、地域に生きるキリスト教会と日本を身近 に感じていただけた一日となったようです。

知らざれる芸術家

 スイスの古都フリーブール近郊の村の雑木林に囲まれた建つ築200年以上にもなる古民家に、池田さんは一人でお住いです。往復5時間
以上かかることから、めったにスイス教会にはお越しになりませんが、私たちの母親のような存在です。

 池田さんは、6月に83歳になられましたが、スイス人の男性と28歳のとき結婚されてからこの家にお住いです。そのご主人も30年前昆虫が媒介する伝染病で亡くなり、同じ家に住んでいた一人娘さんも、ある朝、原因不明のまま3年前急逝されました。


 この夏、往復9時間はかかるというのに、甥っ子夫婦とアッペンツ
ェルの我が家にお越し下さいましたが、神様が創造された雄大な大自
然に感動され(スイスに55年住まれながら、アッペンツエルは生ま
れて初めての訪問でした。)我が家の小さな庭で私が料理したオヤジ
の和食に大喜びで舌鼓を打ってくださいました。
 

 その”返礼”に、8月の最終日、晩夏の木洩れ陽に優しい雰囲気が漂う池田さんの古民家を訪れました。池田さんは、手製のアップルパイ、たい焼きを作り、地元の美味しい白ワインを用意して私たちをお待ちくださっていました。池田さんは、素晴らしい芸術感覚に溢れた優れた折り紙作家ですが、これまで、彼女の才能はほとんど知られることがありませんでした。それは、有名になることや、お金儲けに全く関心がなかったからです。


 でも、私は少しでも多くの方に観てもらいたいと願い、ルーマニア・クルージュの日本文化作品展に彼女の作品を7点展示しました。地元の人々や、日本人は、予想どおり、色といい、形といい、これまで見た折り紙とはまったく違う美しさと優しさを見出し、深い感銘を受けていました。


 自然と野鳥と野花を愛し、今日もイエス様とともに元気にお暮らしになる池田さんの生き方や芸術作品を少しでも多くの人に知ってもらいたいと願い、彼女の意思を尊重しつつ、どんな方法があるか、愚息たる私は現在考えているところです。

この度、制作してみた池田さんのスライドショーです。

40年前の結婚式

  ヨーロッパ一の水量を誇るラインの滝の上に建てられた古城での家内の姪の結婚パーティーに新緑の美しい6月中旬に招かれました。
   

 親族内での結婚式は我が家の次女以来10年ぶりでした。新郎新婦は10年以上一緒に同棲して いて、正直、今更なぜという気持ちもなくはありませんでしたが、これが現代では”常識”で、義弟が重病であるので花嫁姿を見せてやりたいという気持ちも感じられて、門出を祝うことにしました。
 

 お金と時間をありったけ投入して出来上がった花嫁姿と、贅の限りを尽くして着飾った賓客を目の前に、なぜかしら人工的で、ハリウッド映画の一シーンを見るかのように非現実な世界を見ているよう気さえしたものでした。これだけ豪華な結婚パーティーを絵のような古城で催しても、当然、それは幸せで満ち足りた夫婦生活を約束するわけではありません。

 

 披露宴を眺めながら、記憶は40年前の私たちの結婚式に遡りました。兄の借金返済のために一文なしになってスイスに渡ってきた、特別な能力もなく、将来性も疑わしい貧しい東洋の一青年を、反対もせず受け入れてくれた今は亡き妻の両親の度量の広さと深い愛!高価なウエディングドレスの替わりに木綿の素朴なドレスをつけ、化粧もせず頭に野花の冠をつけた花嫁は世界一美しいと正直思ったものでした。
 

 村のスキー場での友人たちの手作りの披露宴、次々と隠し芸が出て笑いをこらえるにに苦労したことなどの思い出が、走馬灯のように浮かんできたものでした。”コージ、お前たちの結婚式は暖かくて良かったな”と、旧友が今でも言ってくれます。
 

 気がつけば、もう深夜の12時。今はなき義両親と、これまで愚かな私を捨てずに人生をともにしてくれた妻、いままでの人生を導き助けてくださった神さまに言いつくせぬ感謝の気持ちを心に満たして、煌々と火の灯る披露宴会場を後にしたものでした。

地上での別れ

 昨年末から春先にかけて親しくしていた方々を次々と失い、胸に
ぽっかりと空洞が空くような寂しさと落ち込みを体験いたしました。
 クリスマスの日には、母教会の深く敬愛していた元牧師。元旦には、若干42歳で最愛の妻と3人の子供を残して、医療ミスの結果、逝ってしまった新生したクリスチャンであったS君。5日後には、高校卒業後、就職した私を親代わりとなって可愛がってくださった常務さん。里帰りの度に、京都にご夫妻を訪れることを楽しみにして50年経ちましたが、3ヶ月後、同じ命日に母親のようだった奥様も逝かれました。二人して仲良く家族と社会に尽くしておられましたが、ご高齢でもあり幸せな旅立ちであったと、寂しさのなかにも、ある種の安堵を感じたものでした。
 2月には、お隣の旧知のイタリア人フラビオさん。顔を合わすたびに”ボンジョールノ、コージ、今日の機嫌はどうかい?”満面の笑みをたたえて挨拶してくれた愛する隣人をもう見ることは出来ません。親しみのある笑顔をともなった挨拶が、1日の始まりをどれだけ明るくしてくれたことでしょう、、!
 一番辛く怒りさえ感じたのは、S君の死でした。迅速に処置されておれば助かったであろう若い生命が、医療従事者が大晦日のお祭りで処置を遅らせてしまったが故の死でした。しかし、S君は臨終の床で”僕の行くところは知っている。だから悲しまないで!”と平安のうちに眠りについたと聞き、私たちは深く慰められました。
 親しい人との地上での別れは、それは辛く寂しいものです。どんな慰めのことばも、真に遺族を慰めることはできません。できることは、私たちが残された家族とともに泣き、主からの慰めが豊かに注がれることを祈ることのみです。そして、出会いを与えてくださった神と、貴重な心温まる思い出に感謝し、復活のイエス様に希望を置くことでしょう。

4番目は男の子

「娘の誕生が3人続いたけれど、4番目の子供は男の子だったね!」
 と家内に揶揄されるほど、6番目の孫はすっかり私になついています。
 小学校の教員をしている末娘の長男を、週に3−4日、我が家に引き取り養育していますが、現役時代に娘たちに注いだ時間やエネルギーを
はるかに凌駕していますから、そう揶揄されても仕方ありません。しかし、
30代の体力を望むべきもなく、降って湧いたような ”子育て” を、 神様
から委 ねられた 責務と信じ体力、気力を振り絞り二人三脚で 、全力投入
しています。幼児期、特に3歳まで、受容され愛され情操を育む環境のなか
で育てられないと、その子の 一生に禍根を残すことはよく知られています。

 ここ数日は好天に恵まれ、いつもは我が家のアトリエに作られる孫の
”工事現場”は新鮮な空気を吸っての戸外の雪の上 になりました。居間では
上機嫌でトランポリンで飛び跳ねるように床から飛び上がったり、日本の
童謡を歌ったり、本当に嬉しそうです。かつてはこの子と同じように子供で
あった者ですが、こんな風に喜んで飛び跳ねればどんなにか素晴らしいものかと思うのですが、成長するにつれて、いつのまにか失われてしまった貴重なものかもしれません。   
 
 この予期していなかった”子育て”には大変な責任と役割が伴いますが、
子供の成長段階をまじかで見ることのできるという特権に加え、神様より
笑いと喜びと祝福を与えられていることは感謝なことです。   

ルーマニアでのリトグラフ展

「ルーマニアで是非とも兄のリトグラフ展を開催したい」とルー
マニアで25年も開拓伝道に血潮を注いでおられる川井勝太郎宣教師から提案を受けたのは、何年か前のヨーロッパ・キリスト者の集いのお交わりにおいてでした。
 
  日本人が描いたスイスの風景画に、何の接点もないルーマニアの人々が興味を持って観てくれるだろうか、、私は、正直言って半信半疑でしたが、川井宣教師の熱意を感じて承諾しました。また、新しい隣人家族がルーマニアで長年宣教師として住んでいたこと、来年のキリスト者の集いの開催地がルーマニアということで、西欧では、ネガティブなイメージを持たれている国への興味が湧いてきたこともありました。
 
   クルージュ市中心にある緑豊かな美しいセントラルパークの一角に建つ宮殿のようなCasino(市民文化センター)は、市の思い入れが随所に感じられる華奢な建物でした。10月8日のオープニングには、著名なクリスチャンアーティストのリビュー氏(彫刻家)ほか地元の芸術家が駆けつけてくださいました。彼らが生まれて初めて見るアートとして熱心に鑑賞されているのを見て、スイスの片田舎で発明されたガラス板を用いた特殊なリトグラフという手法を使った”日本人の感性と視点で見たスイスの風景”つまり”日本人のアート”として捉えていることに気づいた次第です。
 
 川井宣教師がルーマニアで建て上げた教会は60に登るそうで、その内いくつかを訪問して証をする機会を得ました。あの共産主義政権の迫害に耐えてこられたルーマニアのキリスト者の素朴な暮らしに息づくしなやかで強靭な信仰に、おもてなしを受けるなかで触れられたことは誠に恵みでありました。

 10日間を兄弟愛でもてなしてくださった川井宣教師ご夫妻の見送りを受けて、すっかりルーマニアファンになって私たちは秋深まるクルージュを後にいたしました。

A Place for us

政府から冬の暖房費として支給されたものだけど、私の小さな部屋では、それほど暖房費がかからないから、どうぞご自由に使ってください」と震えた手で書かれたカードに添えて、200ポンドのお金が見知らぬ一老婦人から送られてきてね、、。
 ロンドン北東部にある、事情があって親と住めない子供や青年のための家”MillGrove“のリーダーであるキース・ホワイト(社会学博士、牧師)さんと伴侶のルートさんは、15年ぶりかでスイスの私たちを訪れ、そう語ってくれました。

 1899年、銀行員であったヘルベルト・ホワイト氏(キースさんの祖父)が母親を亡くした一少女を世話することから始まった”MillGrove“は、これまで1220人の子供や青年をキリスト教の隣人愛の精神で養護し教育してきました。45年も前に、妻が奉仕で働いたことが機縁となって、ホワイト・ファミリーと子供/青年たちとの交友が始まり、80年から90年代にかけて、私たちの住まいに余裕があった頃、キースさんをリーダーに8−10人の子供/青年を幾度も迎え入れ、彼らにとって”夢”のスイスでの復活祭休暇を過ごす機会を与える幸いを得ました。
 
 私は、100周年記念ビデオプロジェクト”Place for us“制作を依頼され、撮影や編集のため、彼らと生活し、休暇を共にしたこともあり私の人生で忘れがたい貴重な経験となっています。この”Mill Grove“は自らをファミリーと呼んでいますが、いわゆる福祉施設でありながら政府や自治体の財政援助は一切受けておらず、誰にも援助を乞うことなく個人や教会の自由意志に基づく献金のみで、この120年間、運営されてきたのです。上記の一老婦人のように、有り余った預金の中からでは無く、乏しい懐の中から尊い献金が捧げられてきたのです。 私は、ここに、他国では起こり得ない奇跡と英国のキリスト者の深い愛をみるのです。
 
 30年も前に、我が家で休暇を過ごした青年の多くは、今は立派な父親と母親なっていますが、Our Dayと呼ばれる”同窓会”に集まるとき、必ず出る話題はスイスでの休暇だそうです。それは彼らの人生にとって忘れがたきハイライトになっているとのことです。それを聞き、私たちは彼らに宿と食を供してもてなす機会をお与え下さった神に感謝したものでした。

神様へのインタビュー

 誰が書いたか分かりませんが、神様へのインタビューという詩があります。検索すると様々な訳がありますが、私は中川健一牧師が、紹介されていた訳が、一番、心にしみます。紹介させて頂きます。
 
 私は夢を見た。夢のなかで神様にインタビューをしました。神様がこうお尋ねになりました。”それで、貴方はわたしにインタビューをしたいの?”と神様がお聞きになりました。そこで私はこう言いました。 ”ええ、もしお時間がおありでしたら、、” 神様はにこっと笑って ”時間?わたしの時間は永遠にあるよ!ところで、どういう質問をしたいの?”  ”神様、あなたが人類をご覧になって一番驚かれているのはどういう点でしょうか?” 神様がお答えになりました。


 ”そうね、人々はね、子供時代を嫌がってすぐに大人になりたがるね。 ところが、大人になったら子供に戻りたいと言うんだよね。それからね、体を壊すほど働いて金儲けしようとする人がいるんだよね。ところが、体を壊すと健康を回復するためその金を使うんだよね。


 それからね、先のことばっかり心配して今を楽しむということを忘れちゃってるんだよね。だから、今にも、未来にも生きることが出来ていないんだよ。それからね、未だあるよ。彼らはまるで自分だけは死ぬ事はないという顔をして生きているけれど、死ぬ時が来たら、生きた事がないような顔をして死んでいくんだよね” 神様は私の両手をにぎって私たちはしばらく沈黙を保っていました。
 
 それで、私はまた尋ねました。”神様、あなたは天のお父様でしょ!?天のお父様として、私たち子どもにどういうレッスンを学んで欲しいと願っておられますか?” 


 ”まずね。人を強制して俺を愛せよということはできないんだよ。自分が愛される人物に変わるこれしか出来ないんだよね。それからね。自分と他の人と比較するのは良くないよ。それからね、毎日、毎日、許しということを実行して許しを学ぶ人にならなきゃね。それからね、人の心を深く傷つけるのは3秒あればできるけど、それを癒すのは数年かかるということを学んで欲しいな。

 

 それからね、、。” ”まだあるんですか?”
 ”あるんだよ。豊かな人というのは一番持っている人のことじゃなくて、必要が一番少ない人のことを言うんだよ。それからね。自分を愛している人が沢山いるということを学んで欲しいね。だけどその人たちはどうやってその愛を表現してよいか分からないでいるんだよ。それからね、全く同じものを見ながら、二人の人は全く違った受け止め方をするんだ、ということを学んで欲しいね。それから、他の人を許すだけでは充分でなくて、自分自身を許すということも学んで欲しいね。”
 
 ”神様、時間をお取りくださり本当に有難うござました。” と、私は 謙遜に頭を下げました。”それ以外に、あなたの子どもに知っておいて欲しいと思うことがもしあれば最後に一言
付け加えてください。”  神様はにこっと笑って ”わたしは、いつも貴方のそばにいるからね。
いつもだよ!”                 

 

奇跡のメディカルセンター

 11月初旬、地元のメディカルセンターで私のリトグラフ展のオープニング・パーティーが開かれました。新作も乏しく長い間展覧会はしてきませんでしたが、お隣となったメディカルセンターのチーフドクターの提案で、昨年引っ越した小さな家には掲げる場所が乏しくて屋根裏に仕舞われている作品を、広く新しいセンターに展示して患者や訪問者に喜んでもらえたらと実現したものです。
 
 そのオープニングパーティのために、同じ村に住む麻酔医の旧友がアッペンツェル特有の楽器であるHackbrett(ツィッターに似た弦楽器)の演奏と作者紹介のスピーチをしてくれることになっていました。ところが、なんと前日になって、脊髄に痛みを覚える奥様をチューリッヒの専門医に連れていくので来れないと連絡が入りました。
 これは、数ヶ月前から準備してきただけに、まさしく目の前が真っ暗になるぐらいのショックでした。開催まで24時間しかなく、こんな急に代替のスピーカーと音楽家を見つけることなど不可能に近いことです。私たちは、神様に祈るしかありませんでした。しかし祈りは聴かれ、窮地から脱出させてくださいました。
 スピーカーは他の旧友、音楽はスイス教会のバス演奏者津田兄弟がオープニングパーティー開始の5分前に、遠くバーゼルから飛んできてくださり、その名演奏で、予想を三倍を超える60名余りの参加者の心を打ったものでした。感謝!

 

ジャポネス カランチード

 ニューヨーク・マンハッタンで3ヶ月皿洗いとコックをして千ドルを貯め、その千ドルで南米/ブラジルを半年間放浪旅行をしたことがあります。45年も前のことですが、行く先々での貴重な経験や出会いは、いまも鮮明に思いだすことができます。しかし、2ヶ月旅したブラジルとは、その後、何の縁もなく遠い国になっていました。
 
 その遠かったブラジルが、俄かに身近に感じるようになったのは、今年、発刊から35年となる”宣教の声”に連載された工藤篤子さんのブラジル邦人宣教レポートに登場する日系人の生き方が、45年も前に放浪旅行中にお世話になった律義で正直で親切な日系人を彷彿させたからでした。
 
 2月のスイスJEG主催のイスラエル旅行に加わった日系3世の若い音楽家
は、恐らく現代日本のマテリアリズムにどっぷり浸かった若者の間では見ら
れなくなった礼儀正しさ、そして、年長者や他者への思いやりに溢れ、感銘
を受けたものでした。
 
 また今回のキリスト者の集いで映像記録の片腕となり、カメラマンとして
奉仕してくださった日系人の青年も、プロでありながら、そんな素振りは
まったく見せず、素人の私の指示に素直に従ってくれました。
 
 ブラジルには”ジャポネース・ガランチード”という言葉があります。日本
人は勤勉で忠実で信用できる人だという意味ですが、ブラジルに移民した日
本人による生活態度や生き様、自己犠牲の営みによって、貧しい一旅行者で
あった私が様々な恩恵を受け、それに続く日系3世、4世がその遺産によっ
て、今年私が関わった二人の日系人青年の謙遜で爽やかな人柄を育てたよう
に思えました。
 
 工藤さんのブラジル・レポートは、いまだに僻地の道路はひどいものだそうです。その記事を読んで、アマゾン川の河口の都市ベルンから首都ブラジリアまで未舗装の国道を激しい振動の中、2昼夜にわたってバス旅行したことを思い出しました。最後席に設けられたトイレに入ると、椅子に丸い穴が開いていて、その穴から道路へ直接”モノ”が落下するようになっていて、覗き込むと赤い道路が丸い穴の下を流れていきました。今では、そのようなバスはないと思いますが、これも我が青春の忘れがたき思い出の一つとなっています。
(写真は、サンタレムからベレンに向かう船で、赤シャツは船員。このアマゾン下りには1ヶ月かかった。)

持つべきものー良き隣人

 遅れに遅れていたニュースレターを、水曜日にどうにか編集と校正を終えて発送する段になってモデムが壊れていることに気がつき愕然としました。代替品が届くのは来週になるとのこと、途方にくれて、お隣に目をやると、勤務から帰宅したばかりのご主人Oさんが、バルコニーに、、。Oさんに声をかけ事情を打ち明けたところ、一週間の激務の疲れをものともせず飛んできてくださり、自分のパスワードを入れ、インターネットをOさんのネットを使って使用できるようにして下さいました。持つべきものは、親切かつお互いに信頼おけるお隣りさんだと痛感した夕刻でした。

 昨年の秋、30年近く住んだ農家から引っ越しをしましたが、失った2つのもの、目の前に展開する何ら障害物のないアルプスのパノラマと我が畑にいつまでも喪失感を抱いていました。神さまが定年後に住む小さな家(1673年に建てられた民家)を用意してくださっていましたが、アルプス眺望もその半分は隣家に遮られ、庭も半分の大きさになり好きな畑仕事は出来なくなりましたが、替わりに、フレンドリーで親切な多くの隣人を与えられ、隣人らと言葉を交わさない日はなくなりました。

 これまで、隣”人”といえば、牛や羊、人影など日に数人見たでしょうか、神様は、これからは隣人とのお付き合いを大切にし、小さな私たちでも証となれるよう、”人”の間に私たちを意図を持って置かれたのだと思います。
 
 畑の替わりに、HOCHBEETと呼ばれる2mX1mの大きさで、地上から1m高い苗床を購入してハープや野菜を少しだけ育てています。南独にお住いのSさんから頂いた小松菜や青梗菜の苗は驚くほど見事に成長して、毎日ほど和食や中華の新鮮極まりない食材となって重宝しています。葉を摘みながら、がんと闘いつつも主への感謝と賛美、生きる喜びを絶やさないSさんに感謝し、姉が主によって癒されることを切に祈る此の頃です。

35年ぶりの子育て

 昨年、私は夏に南独で開催されたヨーロッパ・キリスト者の集いへの実行委員長としてのオルガナイズや、夏まで夢想だにしなかった27年間住んだ大きな農家から11月の引っ越し、そして義母の逝去といった体力的にも精神的にも限界とも思えるような激務が続きました。その後、疲れが完全に取れる前に、私たちは一年前には、やはり夢にも思っていなかった生活が、昨年の暮れに始まりました。

 
 それは、35年ぶりの子守りとチューリッヒ市街での生活です。小学校教員をしている末娘を支援するため、私たち夫婦が4ヶ月になる赤ん坊を世話をすることにしました。子育てが過去のものになっていたため、戸惑うことが多々ありましたが、”昔の勘”が戻るのにはそう時間がかかりませんでした。眠ってばかりいて、起きては泣いてミルクをせがむのが赤ちゃんで、退屈なのでは、、との予想を裏切り、いまでは、日々進歩し、あやすと笑顔で応える表情豊かな小さな生命に魅せられています。”げんこつ山のたぬきさん””大きな栗の木の下で”を久しぶりに歌って踊って、あやしていると危うく赤ん坊を落としそうになるときもあります。小さな暖かな体を通じて神様の愛による温もりがじっと伝わってきます。

 
 昨年11月に村の中心近くに引っ越しした、1667年建てられた小さな家(いずれは大きぎる上、薪暖房の農家を去る時が来るとは知りつつも、家探しなど全くしていなかったのです。)には、いまは週に半分住むのみで、私たちは”別荘”とも呼んでいます。チューリッヒの灰色の空と灰色のアパートの壁には慣れそうもありませんが、これも、私たちに与えられた責務と受け取り、感謝をもって果たしていきたいと願っています。

 

転居

三人の娘たちも、この建って300年近い旧く大きく前近代的な農家で育ち、そして巣立っていきました。いよいよ今日が、隅々まで懐かしい思い出が残る、27年間住んだ家での最後の朝食のとき、窓外の朝日に映えるアルムの上で、何十匹の羊の親子が悠々と草を食んでいる光景はあまりに美しく、別離の寂しさに、目に入る全てが愛おしくて胸が押しつぶされそうになりました。

 今年の初めには夢にも考えていなかった引っ越しがまさか現実になるとは、、。それは、この夏、南独シュヴァルツヴァルドで5日間開催される第33回ヨーロッパ・キリスト者の集いの準備作業に実行委員長として多忙を極めていた7月末にかかってきた一本の電話が発端でした。ハイディは、今年の初め、 チューリッヒ州において、益々増えるであろう私たちの家族に関する様々な責務(91歳になる義母のお世話や6人となった孫たちの子守など、、)を前にして、私たちは夏場を除いてすこぶる困難をともなう居住環境に関して解決を祈っていました。なぜなら、特に冬場における幾多の障害(厳しい寒さ、降雪、薪暖房の難しさ)をどうやって乗り越えていっていいか人智では解決がつかなかったからです。


 その電話は、母教会の長年の友人から、彼女の94歳になる父親がこの間まで住んでいた小さなアッペンツェラーハウス(この地方独自の木造民家)に、父親が老人ホームに入居したので、移り住む気はないかとの問いでした。私たちにとっては、これは最初から私たちの祈りへの神さまの応答である事に疑いはありませんでした。しかし目の前には乗り越えるべき障害物が幾つも幾つも横たわっていました。これまで住んだ旧い大きな農家の片付けには膨大な時間とエネルギーを必要としましたが、疲労困憊したものの幸い病むことはありませんでした。


  いくら愛しくとも、寂しくても、辛くとも、生きとし生けるものには、愛しき人々同様、別れなければならない時がいつか来ます。昨年の職場(障害者のための工房)からの完全退職、長年住んだ家に自然環境、初めは小さな家の購入に否定的だった91歳になる義母も後には助けてくれましたが、11月22日この世を去っていきました。また一人愛する肉親を失い心が折れそうな時もありますが、上を見上げて、これからの残りの人生を歩んでいきたいと願わされています

親友:見 KEN

  親友見に出会ったのは、妻との運命的な出会いもあったエクセターという英国の南西部にある町の語学学校でした。


 地方財閥の御曹司と、片や”すし屋の倅(せがれ)”という立場や、きっぱりとした男らしい性格と愚図で決断力が鈍いという大きな違いはあったけれど(私はもちろん後者)70年代に若者の憧れの地であった欧州や米国で放浪時代を過ごした見とは奇妙に気が合って、以来長年にわたり友情を育んできました。青春を、人生を、放浪の旅を、いつも心底から語り合え、私たち夫婦の帰国を待ちわびて、里帰りのたびに3泊4日の国内旅行を心から楽しんできた見が、最愛の奥さんを遺して、昨年の11月にガンで逝ってしまいました。


 年を重ねると様々な喪失と向き合うものですが、無二の親友を失った辛さは想像以上で、今日まで彼のことを思わない日はありません。パン屋修行を始めた甥っ子を連れて、バケットとカマンベールを手に、フランス・プロバンスの田舎を旅する夢も、もう一度尾瀬をともに歩く夢も実現することなく逝ってしまったK。辛く悲しいけれど、45年も友情を培ってこられたことは何という恵みであったことか、長い悲しみの時期を経て、やっと神さまに感謝できるようになりました。


 父親のこと、母親のこと、家族のこと、背負いきれないぐらいの重荷を負っていた友、それらすべてを神様はご存知であったと信じ、全知全能の主に友を委ね、希望をしっかり握りたいと願っています。


 「見よ、天国でもう一度、われらの青春を、人生を、放浪時代を、魂の遍歴をこころゆくまで、話し合えることを楽しみにしているよ。」

憧れのシチリア島

 いつ頃からかわかりませんが、碧い地中海に浮かぶ”シチリア島”は私の心の中で憧れの島であり続けました。
 
 思い立って秋の格安飛行便に一週間予約をし、受け取ったe-Tiketを確認するとなんと5週間になっているではありませんか!帰り便の月を間違ったようで格安便の故に変更は出来ません。それで、定年後も週に一度続けていた勤務も辞し、私たちの”定年記念”旅行(妻もこの夏から少し年金を受給できるようになったのです。)にと、かての放浪時代に戻った気分で、5週間、勧められたレンタカーでなく、時間だけはたっぷりとある私たちは、信頼に欠くこと夥しい公共の交通機関を用い、シチリア人に混じって旅をいたしました。
 シチリアの大自然は夢見た通り、実に変化に富んで美しく、また、3千年に渡る歴史(カルタゴ、ギリシャ、ローマ、ビザンチン、イスラム、ノルマン、フランス、スペイン、オーストリアなどと、盟主が数百年ごとに変遷)の重厚な歴史的遺産が残る興味の尽きない、旅人にとり魅力ある島です。安くて新鮮、食べ物は美味、そして、貧しくもめっぽう親切なシチリア人に貧しい旅人である私たちは大いに助けられたものでした。一方、社会的インフラは汚れ疲弊していて、混乱が支配し、貧困や犯罪、移民問題等、負の側面も多く、特に都市では緊張を強いられるので、個人”休暇”には不向きかもしれません。
 危険と隣り合わせの旅でしたが、神様は実に私たちを護り、袋小路に陥っても脱出の道を備えてくださいました。感謝!今回の”シチリアの旅”は私たち夫婦にとって生涯の思い出になるに違いありません。

年を重ねるということ

 今日は、私が職業人としての生涯を終える”寂寥感と心の痛み”が伴った感慨深き日となりました。38年前にスイスに渡り、今日まで心身に障がいを持つ人々と関わって、アート・作業療法士として働いてきました。
 一所に長くいることのなかった根無し草の私が、30年近く重度心身障がい者施設に勤務し、その後、二箇所のグループホームで働き、定年を迎えられたのも、神様がお与え下さった賜物と導きなしにはあり得ないことでした。
 
 あと2年で定年を迎えようとしていた時、福祉法人の理事長から新設されるグループホームにおいて、作業所を立ち上げたいので参画してほしいと依頼がありました。それは、すべての施設や作業所からはじき出され、居場所を失った知的障がいに加え心に病をもったティーンエイジャー6人が共同生活を営むグループホームでした。血気盛んな、しかも、その中の一人は暴力を振るう青年で、殴る蹴る噛むで屈強な若いソーシャルワーカーが次々と辞めていく大変な職場でした。
 それは神様の召命として受け取れねば勤めることは出来なかったに違いありません。私はこれまでの経験と与えられた賜物を用いて、定年を迎えたころにはその工房をどうにか軌道に乗せることが出来ました。リーダーから週に一度でよいので工房での指導の継続を請われ、3年足らず勤務を続けてきました。私は、逆に教えられることの多い障がいを持った人が大好きで、週に一度の勤務は気分転換以上のものとなっていました。
 しかし、高齢の義母と母を抱え、成長の激しい孫たちに、もっと時間を使いたく今回の退職の決断に至りましたが、工房を愛していたが故、正直易しい決断ではありませんでした。
 年を重ねるということは、様々な喪失と向き合うことです。自己の価値が次々と失われていくような寂寥感を伴います。しかし、そういった小さく弱い者のために、イエス様は十字架にかかってくださったのです。私たちがイエス様を通して、天のお父様に繋がっているかぎり、どのような人間でもその価値が失われることはないのです。神様は、すべての人間に計画をお持ちです。私にも・・です。その神様に全幅の信頼を置いて、急がず一歩一歩前進していきたいと願っています。
 これまで、試練の中で弱い私を背負い、支え、お導きくださった愛の神さまに、そして我が妻と家族に心から感謝して・・。
 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。                    詩篇 103:2

 

末娘への誕生祝い

6月16日に誕生日を迎える末娘が、WhatsAppを通じてメッセージを送ってきました。「愛するパパとママへ、私の誕生祝いに何がいいかと尋ねられ、考えてみました。私が望むもの、、それは二人からの私への個人的な”手紙”です。日本語、英語、ドイツ語、、言葉はどれでも構いません。それはお金や買ったものより、私にはとても大きな意味を持つものです。もし何を書いてよいか解らないときは、私は子ども時代のことを少ししか覚えていないので、私の子ども時代の想い出を書いてください。私がどんな子どもだったか、どんな想い出が残り、二人が今の私をどう見ているか、家族の中で何か姉達と異なっていたことや、感じた事を思いのまま綴ってくれるなら、私にはどれほどの喜びになるでしょう!」
 

 娘たちに長い手紙など書いたことのない私でしたが、小筆を右手に可愛らしくも活発で血の気の多かった末娘の子どもの頃を思い出そうとすると、走馬灯のように数えきれないぐらいの想い出が頭を駆け巡りました。利発的で可愛く音楽の才能が豊かな末娘を内心誇りにしていたのに、決して褒めることがなく、不必要にも劣等感を植え付けてしまった典型的な日本人の父親。口達者な末娘には勝てる筈はなく、求められると何でもOKと許可してしまい、ブレーキ役になれなかった悔恨。ティーンエイジャーのときの迷走と反抗には、どれほど心配させられたことか、、。

 教会にもキリスト教にも反発し続けてた末娘が、30歳前になって、イエス様を信じて救われ、グライフェン湖で洗礼を受けたときの親としての無上の歓び。そして、その後の変わりよう、ケニヤやシリアの子どもたちのための働き、いつも他人を思いやる優しさ、教師としての勤めに全力を打ち込み、限られた自由時間を姪や甥に注ぐ無私の姿。帰宅すると家中を一番明るく賑やかにしてくれる、そんな末娘への父親から初めての素直な手紙となりました。

 

ヘブル的”お荷物”物語

1973年(ヘブライ歴5734年)、当時、ガリラヤ地方のナザレの南にある、グヴァトというキブツで労働奉仕をしていたスイス人の恋人を訪ねて、小さなリュックサックとギターを背に2週間イスラエルを旅したことがあります。シリア・エジプト連合軍の奇襲で勃発した第4次中東戦争、別名ヨム・キブル(贖罪日)戦争が始まる10月6日の4日前、開戦前の緊迫感が全く感じられなかったイスラエルを後にして、放浪者であった私はギリシャに向かいました。シリアの空襲でキブツが跡形もなく破壊され、ボランティアで働いていたスイスからの若者達が、楽しみにしていた聖地旅行も中止となり、命からがら脱出した事は、インターネットのなき時代、随分後になって知る事となりました。

 

 そして、今回、夢想だにしなかった41年ぶりのイスラエル再訪を、スイスJEGからの聖地旅行団の一員として、かっての恋人だった妻とともに実現出来たのは、まぎれもなく神様からのプレゼントでした。イスラエルの歴史と現在を熟知され、深い関わりを持たれるマイヤー牧師を団長としての今回の旅行は、参加者一人一人に期待以上の深い感動をもたらしたと共に、生きた聖書の世界を立体的かつビジュアルに、そしてヘブル的に正しく理解する又と無い機会を与えてくれました。その印象と感動の数々は、参加者の感想文によって知っていただけると信じます。この稿では、聖地旅行が、”珍道中”ともなった私の失敗談を記してみたいと思います。

 

 エルサレム旧市街にある神殿の丘の真下の西壁”嘆きの壁”の説明をマイヤー団長から受けて、壁に向かってつぶやくユダヤ人の姿を柵越しに興味をもって見学していました。ふっと気がつくと周りに我が愛すべきスイスJEGのメンバーが一人もいないではないですか!集合時間も場所もガイドさんから知らされていなかったので、神経の鈍い私もすこし慌てて広大な広場を見回してみましたが、見慣れた顔は何処にも見つからず、これはスイスJEG聖地旅行団の”お荷物”である私がてっきり置いてきぼりをくらったものと判断いたしました。”嘆きの壁”の前で嘆いていても仕方がないので、私は次の目的地のヴィア・ドロローサにに向かって歩き始めましたが、狭い路に間口一間ほどの店が乱雑にならぶアラブ人街はまさしく迷路、40年前のかすかな記憶は全く役にたたず、西も東もわからず人波に流されるまま歩きはじめました。放浪旅行中は、これが日常の姿でしたから私自身は平静でしたが、妻やJEGのメンバーに心配をかけているのではと思うと、さすがに鈍感な私も申し分けない気持ちになりました。

 

 前日、ヨルダンの谷を経てエルサレムに入り、キブツ・デガニアベットが経営する4つ星ホテルに着いて、ポーターにトランクを預けたのですが、一時間近く経っても部屋に届きません。仕方なく探しに出ると、パレスチナ人のポーターが仕事途中で嫌気がさしたのか、廊下や階段の踊り場のあちこちに届けられなかったトランクが放置されていました。発展途上国の2つ星のホテルでも、こんな珍しい体験は出来ません。大部分は持ち主が自分で見つけて部屋に運び入れたものの私の”お荷物”は何処にもなく、JEGのメンバーは輪になって荷物が出てくるよう祈ってくださいました。抗議を受けたホテル側が重い腰をあげ、あちこち探した結果、半時間後に全く関係のない部屋に放り込まれていた私の”お荷物”トランクが出てきました。

 

 そんな前日のホテルでの”お荷物”騒動を思い出しながら、私は半時間余りパレスチナ・アラブ人の迷路を彷徨ったあげく見覚えのあるダマスコ門に出ました。携帯も繋がらず、ダマスコ門でたむろしているパレスチナ人のタクシーの運ちゃんにホテル(幸いホテルの名前は覚えていたのです!)までの値段を交渉しました。予め何人かのパレスチナ人を捕まえ相場を聞いておいてから交渉に及び、100ドル(380シェケル)という要求額を70シェケルまで値切って乗り込みました。

 

 私は、どこの国でも言葉が通じる限り、タクシーの運転手と話をすることにしています。タクシーの運転手は通常話好きなうえ、庶民が何を考え、話題にしているかふんだんに情報を得ているからです。エルサレムでも、それぞれの家族のことを話し合い、ついでに2ヶ月近く続いたガザ紛争を話題にしたところ、4人の子持ちのパレスチナ人運転手は興奮しはじめ、話題にすべきでなかったことを悔いたものの後の祭り、横断歩道を歩くイスラエル人を轢き殺さんばかりの運転ぶりになりました。

 

 曰く、「ユダヤ人とアメリカ人は世界一の大嘘つきだ!戦争を仕掛けるのはいつもユダヤ人で、パレスチナ人を抹殺しようとしている!」などなど。ハマスが、民間人を盾にして戦争するから市民の犠牲が多くなるのではないか、ミサイルを学校や病院、モスクの下に隠しているため被害も大きくなるのでは、イスラエルは空爆前に市民に退去宣告を出しているが、ハマスが退去するなとの命令を出している、、等の情報はハマスやパレスチナ自治政府側からは当然ながらパレスチナ人へは一切出されていない事は自明でした。骨の髄まで染み込んだユダヤ人恨めしとの憎悪観は、当然、合理的説明でぬぐい去れるものではなく、国際社会の”お荷物”となっているパレスチナ人と呼ばれるアラブ人の聞きしに勝るアグレションに、ユダヤ人とパレスチナ人の間に立ちはだかる巨大な憎悪の壁を否が応でも感じざるを得ませんでした。

 

 その後、ホテルに着くまでパレスチナ人運転手の興奮をなだめるのに時間を費やしましたが、客が運転手をなだめるという希有な経験で、アブラハムを父とするこの二つの骨肉の争いを身を持って知ることになりました。ホテルに着くと、携帯にも何とか繋がり、私たちが族長と呼んでいた優しい運転手のアブラハムさんが笑顔でホテルから、”放蕩息子”なる私をスイスJEGメンバーの待つジャッファ門まで運んで下さいました。愛するメンバーは、嘆きの壁の前で”迷子”になった私の為に、前日に引き続き、再び輪になって祈ってくださったとのことでした。心からお詫びするとともに、感謝の念で一杯になりました。

 

 ”二度あることは三度ある” その翌日は、パレスチナ自治区内にある旧約の舞台で何か起こるような予感が致しました。三度目は、会見の幕屋が張られたシロの遺跡で、お隣のロルフさんからお借りした使い古した麦わら帽子とボールペンが風に煽られ、遺跡内に落下したことです。シアトル生まれの遺跡ガイドさんが立ち入り禁止の遺跡の底まで行って拾ってきてくださいました。エルカナがハンナをなだめていた場所かもしれません。エルカナさん、ハンナさん、ごめんなさい。その後、特筆すべき失敗は起きず安堵の思いでした。

 

 神が祝福を約束されたアブラハムの末裔であるイスラエルの民に、後から参入したにも拘らず、イエス様を信じることを通して、私たち異邦人をも救いと祝福に預かるものとしてくださったことに感謝し、イスラエルのために引き続き祈ることの重要さを感じました。それと共に、真の神を知らないイスラム教徒や、怨念に身を焼くパレスチナ人のために更なる執り成しの祈りを捧げる必要を身に染みて感じた今回の旅でした。

 

ケニヤに繋がりの出来た夏

チューリッヒ市で小学校教員をしている末娘が、夏期休暇4週間をケニアのナイロビ近郊の二つの孤児院で、ボランティアとして働いた経験談を帰宅した折り4時間余り聴く幸いを得ました。

 

 連日の雨で、道路も地も全てがぬかるみと化し、赤道直下ながらも2000mの高地では靴下を3枚、ズボンを2枚重ね着しても寒さで眠れぬ夜が続く苛酷な環境のなかで、嘔吐下痢を伴う激しい腹痛に懸りながらも、務めを果たし無事帰還したことを、祈りに応えて下さった主に深く感謝したものでした。
 

 泥濘となった道無き道を、バスで喘ぎながら2時間半かけ着いたナイロビ近郊にあるトゥマイニ孤児院http://www.tumaini-waisenhaus.de/では、200名余りの孤児達が職員(多くはクリスチャン)と寝食を共にしています。末娘が撮った写真を見ると、毎日の食事がトウモロコシ粉とキャベツを茹でたも、だけという、この苛酷な自然居住環境のなかで、孤児達の笑顔は、不幸な境遇を全く感じさせないほど、底抜けに明るいことに意表をつかれたものでした。


 それは、もう一つのエイズ保菌者の孤児施設の子どもたちも同様でした。物が溢れ、贅沢に慣れきった先進国では、様々な精神的疾患にかかり希望なく喜びの失せた表情をもつ人々の姿と対照をなすものです。末娘は、いまケニアの子どもたちに何ができるか真剣に考えています。私もケニアと聞けば、少年期に夢中になった「少年ケニヤ」とサファリぐらいしか思いが及ばなかったのが、いまアフリカに心を捉えらた娘を通じて、私たちの心がケニアに向いているのを感じたこの夏でした。

 

氷点が世に出て50年

 三浦綾子さんのデビュー作”氷点”が出版されて今年で50年になります。朝日新聞の一千万円懸賞小説にプロの作家を抑えて当選した”雑貨屋のおかみ”によって書かれた小説は、当時、センセーショナルな人気を呼んだものです。

 

 この人間の原罪をテーマとした”氷点”は、芹沢光治良の大河小説”人間の運命”とともに、私の人生にもっとも大きな影響を及ぼした本となりました。そして、この二人の作家は、私が書き送った便りには、超多忙の身であるのにも拘らず必ず返事を下さり、人間として誠実に応答することの大切さを学びました。
 

 1998年10月9日、私は旭川の自宅に、召される一年前の三浦綾子さんと光世さんを訪れました。パーキンソン病で衰弱された綾子さんを、光世さんは、それは優しく甲斐甲斐しく介護されておられ、夫婦愛の極地を見た思いで、深い感銘を受けたことを、最近の出来事のように覚えています。帰り際、お二人は門のそばまで見送って下さり、私のような名も無い一読者に深くお辞儀され別れを告げられましたが、生身の綾子さんを地上で見るのも最後だと予感し、その姿をしっかりと脳裏に刻み込んだものでした。


 この春、サンクト・ガーレン州立病院に研修に来られたK医師にお貸しするため、本棚に薄茶色に変色した昭和53年第33刷とある”氷点”を取り出し、ページをめくると”人生の宝”となった想い出が蘇ってまいりました。

 

ぞうり履きの伝道者

ぞうり履きの伝道者として知られた升崎外彦牧師 http://lvjcc0822.blog60.fc2.com/blog-entry-421.htmlの伝記を田辺先生からお借りして深い感動をもって読んだ事があります。心打つ多くの挿話の一つが、当時、重度心身障がい者施設で重い障がいをもつ成人のために働いていた私の心を捉えて離しませんでした。


 升崎牧師は和歌山の南部(みなべ)という海岸町で労祷学園という塾を作り、有為のクリスチャン青年を育成していました。また、誰もが受け入れようとしない受刑者や病人、障がい者を升崎牧師は、塾に連れて帰って共に暮らしていましたが、ある日、乞食をしていた”あほ忠”と呼ばれる重い知恵遅れの男子を連れて帰って以来、労祷学園は“あほ学園”と呼ばれることになり、有為の青年達は去っていきました。しばらくして”あほ忠”も元来の放浪癖が出て、行方不明となってしまいました。


 数年後、升崎牧師は機帆船の船長をする紳士の訪問を受けました。船長が語るには、機帆船が尾鷲港を出帆後、しけにあい暗礁に衝突した際、船底に開いた穴からの浸水が止まらず、もはやこれまでと断念した時、船底から”船長、船長”と叫ぶ声が聴こえてきました。船底に降りると、例の”あほ忠”が船底の穴に自らの太ももを突っ込み、苦しみに喘ぎつつ”船を陸に、、”と狂おしく叫んでいた。船員達が必死になって水位の下がった船を陸に近づけた時、”あほ忠”は右大腿部をもぎ取られ息を絶えていた。


 労祷学園で毎晩寝小便しつつ暮らしていたとき、オランダの堤防決壊を身をもって防いだハンス青年のことを良く聞いていた”あほ忠”こと山本忠一青年は、人から馬鹿にされ嘲笑されつつも、日本のハンスとなり、この船長と数名の船員の生命を救ったのでした。もし、升崎牧師がイエス様の羊99匹を置いて失われた一匹を探すという愛を実践していなかったら、この話も無かった訳です。

”人がその友のために命を捨てるという、これより大きな愛は誰も持っていません。”ヨハネ 15:13"

小野田少尉との出会い

3年半、50数カ国に渡る世界放浪の旅がいよいよ終了にさしかかっていた頃、フィリピン・ルパング島で終戦後30年間任務遂行のためジャングルに潜んで戦闘を継続していた日本兵を、私同様、世界を放浪していた鈴木紀夫という青年が説得して武装を解き帰国まで至らせたというニュースを知った時の驚愕を今も鮮やかに覚えています。1974年の出来事でした。

 その日本兵、小野田 寛郎(おのだ ひろお)元陸軍少尉に、2005年、岐阜県の恵那市で、スイス在任時からお交わりを頂いていた國松孝次元スイス大使と共に会いお話しさせて頂いた事があります。背筋を延ばした古武士然とした美しい姿勢の小野田元少尉は、戦闘を継続したのは上官の命で、その残留命令の解除にはその上官の命令が無ければ応じないとの決意に、一度帰国した鈴木青年はその谷口という元上官を探し出しルパング島に赴かせ、解除命令を出した瞬間、小野田少尉の”戦争”が終わったことを私に優しい口調で語ってくれました。私のような放浪者鈴木青年の説得に応じての帰国という30年ぶりに溶けた私の誤解でした。(なお、鈴木紀夫青年は,その後、雪男を捜しにヒマラヤに行き、行方不明になったと聞いています。)その会見の様子を書いた2005年11月のブログです。http://osnet.exblog.jp/3859617
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  また、旅につきものの夢想だにしなかった出会いというのも、今回もいくつかありました。(けだし、出会いはおおくの人にとって”偶然”や”幸運”であるけ れど、私は“必然”であると信じています。)岐阜県恵那市で10月22日にスイス、ベルン在住40年の画家 横井照子さんのチャリティー俳画展が開催され ました。そのオープニングパーティーに國松孝次前スイス大使夫妻が出席されるとのことで、丁度その日は私たちも恵那の友人宅にいるので、國松氏とは今回は 東京でなく、恵那で会う約束をしていました。
 その俳画展は、かってルパング島のジャングルで30年間残置謀者の任務を遂行していた、あの小野 田 寛郎元陸軍少尉で、ブラジルに移住後、牧場を開拓したのち青少年やハンディキャップを持つ子どものために“自然塾”をたちあげ、83歳にして今も日本とブ ラジルで活躍する氏への支援のための個展でした。


 その小野田少尉をジャングルから出るように説得したのが、鈴木青年で私と同じ世界を放浪して い た青年であったということで、当時3年半に渡る世界放浪の旅の終わりにさしかかっていた私はひどく感動したものでした。その”小野田少尉”が生きて目の前 にいるとは俄に信じがたく、そのいきさつを本人に尋ねました。小野田少尉は上官の命令(それは天皇の命令)で潜伏し任務を遂行しておるが故、上官の命令が ない限りジャングルからでないという通告をしたので、鈴木青年は日本に帰り、生存していた上官を探しだし、上官がじきじきフィリピンにわたり、停戦命令を だして初めて小野田少尉は銃を置き帰国したわけです。私の記憶は誤っていいたことを30年ぶりに知るにいたりました。 小野田少尉は指揮官(天皇)の命令に忠実にしたがって、一日も怠る事なく銃剣を磨き,実戦にそなえてきたことは、私の記憶に間違いはなかったけれ ど、、、。この小柄で柔和な小野田さんのどこに強靭な意志が潜んでいるのか、背筋を伸ばした美しい姿をみて、考えさせられた一日でした。


 國松孝 次前スイス大使には、OSNNLの7/8月号で紹介したホームズ恵子さんの活動をお話したところ大変興味を示され、もっと知りたいとのことで、丁度 読了したばかりのホームズさんの著書”アガベ”を差し上げることができました。國松さんはホームズ恵子さんのことを、小野田さんにも是非お話したいといっておられましたから、あるいは 小野田さんとホームズさんの会見が実現するかも、、と夢のような考えを抱いて私たちを待つ母がいる郷里津に向かいました。

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 小野田元少尉を軍国主義の権化と非難することは容易でしょうが、私は上官の命令を死を賭して忠実に守り、一日たりとも銃剣の整備を怠ることなく、戦闘に備えていた元少尉の姿勢に、クリスチャンとして学ぶべきものがあるのではと考えました。私たちにとって上官とは、主である神様ですが、私はどれほど忠実に従っているでしょうか。小野田少尉にとって命に等しい銃剣は、私たちにとって神のみことばである聖書ですが、私は命に等しい聖書を、聖書にある一文一句をどれほど大切に扱っているでしょうか。1月16日、小野田少尉の逝去の報に接して考えたこと、思い出した事を書いてみました。
 

 

箱船の中の家族達

 「箱船の中の家族たち」の著者・阿部克衛さんが家族で営む印刷会社は、東北の地、宮城県気仙沼市にあって長い間福音を撒いてこられましたが、津波で自宅も高価な印刷機器も全てを失いましたが、それを知ったクリスチャンが支援に立ち上がり復興に漕ぎ着けました。その感動を呼ぶ実話は、次のサイトでお読み頂けます。http://www.j-m-f.org/airin.html

 

 スイス教会は,その阿部さんファミリーに記念誌の印刷を依頼しましたが、期待に応えて見事なお仕事をして下さいました。腰痛に苦しむ妻と、仙台から往復6時間の旅は流石に堪えましたが、阿部さんファミリーとの出会いは心の芯まで温かくなる、遠路を補って余りあるものでした。
今年も、神様から多くの感動的な出会いを与えられましたが、阿部ファミリーとの交わりは生涯忘れ得ぬものとなるに違いありません。
 印刷所の一室は,津波で全壊した気仙沼第一バプテスト教会の礼拝堂として使われています。小雪舞う気仙沼でいま持たれているであろう降誕祭に思いを巡らしています。

Mis Huus!

 スイスでは長かった冬の後に、小雨の多い短い春が到来したと思っていたら、突然連日30度をこす猛暑に襲われました。都会では堪え難い酷暑ですが、標高千メートル近い高原に建つ古い我が家の東隣に聳える樹齢300年の菩提樹の下には、絶えず涼風があります。天国とはこのように心地よいところだろうかと、長く厳しい冬に耐えた神様からのご褒美とさえ思えるほどでした。
 
 孫たちへのガーデンハウスもその好天のお陰で作業が進み妻がカーテンをつけてくれて、本当にかわいらしく完成いたしました。早速、やって来た3歳の孫娘のラティーシャが”じーじがこの家を私のために建てたの?わたしのおうち Mis Huus !!" と飛び跳ねながら大喜び、。僅か3歳でも、自分のために一生懸命に作ってくれたということが理解出来ることに私のほうが驚かされました。
 
 翻って私たち人間は、この美しい自然も、色とりどりの美味しい作物をもお創りになり、雨を降らし、日を照らして下さる神様にどれだけ感謝しているでしょうか。神がいるならなぜ戦争が起こり、悪い事が頻繁に起きるのか、生きる上で欠かせない計り知れない富を享受しながら、つぶやき感謝しない人間の愚かさと罪を思わされたものでした。

ガーデンハウス

 我が家の菜園の側に建つ一坪あまりのガーデンハウスは、現在も住まいである築250年にもなる農家に引っ越した24年前に、その頃小学生だった娘三人と力を合わせて建てたものでした。娘達の成長につれてガーデンハウスは使われなくなり、屋根は崩れ、板塀も朽ち無残な姿を晒していましたが、懐かしい思い出が詰まった記念物であり、壊すには忍びなくそのままにしていました。

 

 定年という人生の秋を迎え、いつまでも過去に囚われているべきではないと思い、孫たちのために木製の子供ガーデンハウスのユニットを買ったのを機に取り壊すことにしました。ところが土台も梁も頑丈に作ったせいで全く損傷がなかったので、気を変えて屋根を葺き、板塀を張り替えて新築同様に
して、孫たちへプレゼントにすることにしました。
 今年の長雨と低温で"改築"は遅々として進みませんが、私たちの人生も信仰という土台と骨組みさえしっかりしておれば、幾度もやり直しも再構築も出来るのだと教えらました。

あと3cmで激突

その朝は、私が週に一度出勤する日で、勤務地到着時間を気にして先を急いでいました。トローゲンという村の郵便局に郵便物を投函し、後ろを振り向き、バックミラーで車が来ない事を確認して、反対車線にぐんとアクセルを踏み込んだその瞬間、耳を割くようなブレーキ音が飛び込んできました。
 私が飛び出そうとした車線に、来ない筈の車を見つけ私も急ブレーキを踏みました。2台の車はあと3cmで激突という危ういところで止まっていました。私は肝を冷やしましたが、これは神様が守ってくださったとしか思えませんでした。
 車を降りて、相手のバルカン系と思われる若い運転手に謝りにいきましたが、幸いに激高する様子もなく、”あと3cmで終わりだったね”と穏やかに応じてくれました。”私はクリスチャンだけれど、これは神様が我々を護ってくれたとしか思えない”と述懐すると彼も頷いてくれました。
 私たちは、気づこうが気づかまいが、主が私たちを護っていてくださることを覚え、それを感謝しない罪を告白し、また期せずして、証をする機会をお与え下さった主に感謝した朝でした。
  

スノーシューの楽しみ

3年前、カントリースキー事故で左大腿骨を折って以来、断念していたウインタースポーツですが、昨年の冬にスノーシューを購入、戸口からそのまま雪原のうえに踏み出せるという簡便さもあって夫婦揃ってはまっております。
 雪原ばかりか、かなりの傾斜地も自由に歩けるので、今まで敬遠していた冬山も1500mぐらいまでなら幾度も登れるようになりました。若者のような体力を必要とせず、費用もかからず、熟年にも無理なく楽しめるスポーツとして同世代の友人にも勧めています。
 雲海を眼下に、抜けるような蒼空の下に展開する、夢のような美しい大自然を創造された神様を賛美して止みません。そのスノーシュー山歩きの様子をショートビデオにしてみましたが、その楽しさの一端が伝わりましょうか。

”やぎ工房”終了のお知らせ

 スイスの邦人情報誌 グリエツェへの原稿
昨年秋に定年を迎え、心と体に重い障がいを持つ成人と共に、作業&アートセラピストとして過ごしたスイスでの35年にピリオドを打ちました。
  21世紀に入るや否や、福祉の現場にも突如導入された合理化と効率優先のため、長年勤務してきた障がい者施設をやむなく退職し、重度障がいにより職場が得られない成人のために、グループホーム内に「やぎ工房」を発足させました。その際、グリエツィを通して、経済的な支援も含め、読者の皆様から多くの励ましを頂き、今深い感慨とともに振り返っています。
 
 2010年、乞われて新しく出来たグループホームに移り、暴力や心の病が原因で居場所を得られなかったティーンエイジャー5人のための作業所を立ち上げました。全力投球をした結果、2年後には軌道に乗り、後進に運営を委ねることができました。ここまで来れたのは決して自分一人の力では無く、この小さく弱い私を支えてくれた妻 や娘達、母や祖国、そしてスイスの友人達、そして何よりも神に心から感謝しております。
 
 これからは、いかに年を重ねて行くかという課題が私に与えられていると思いますが、残された人生が、一隅を照らす光となり、人々の祝福につながるようにと祈りつつ、一日一日を大切に歩んで行きたいと願っております。
 
 これまでのご支援に心からお礼を申し上げ、やぎ工房活動終了のお知らせとさせていただきます。本当にありがとうございました。    
 

人生の目的とは?

 昨年秋、定年を迎えて以来贈られた書物が、私のデスク上に積み上げられています。増える筈だった自由時間を使って読み始めようと思いつつも、3月まであと一週間という日まで手着かずにいた本です。
 「丘の上の邂逅」三浦綾子著、「この愛に捉われてー安倍哲と霊満クルセード」野村和子著、「巴里に死す」芹沢光治良著、「福島原発事故ー内部被ばくの真実」山下俊一共著、「いのちより大切なもの」星野富弘著、「夢をかなえる方法、おしえます。」日比野文美著、「イエスの福音」ジョン・F・マッカーサーjr.著の7冊で、うち4人は幾度もお会いし知己を得た著者で(2人は故人)、作家の人となりに直に接すると、読む際も深い思い入れがあって、どれから読もうかと迷うのでした。
 そこで、文字が一番大きく文章も易しそうで、2時間もあれば読了出来そうな「夢をかなえる方法、おしえます」を手に取って読みはじめました。著者は一児の母で、生まれつき聴覚障がいを持ち、いじめを始め様々な逆境のなかにあっても前向きに人生を切り開き、時給680円のパート主婦から、ビジネスオーナーに変身して、9年後には年収が3000万円を超えるというサクセスストーリーでした。
 ブランド品、エステ、億ション、海外旅行と女性が”夢”みるターゲットを次々に手に入れていきます。著者は遭った試練も逆境も肯定的に受け取り、それをバネに次々と”夢”を実現していくストーリーは、これこそ現代人の”人生の目的”であるという確信を与えるものではないかと思いました。
 この著者の父親には昨年白川郷の温泉で知り合い、(脱衣場で私のパンツをしげしげと眺めておられた男性で、同じ柄のパンツで自分のものと思われたようでした。これこそ正真正銘の「お尻合い」ですな。と後で大爆笑)同年代で山歩きと旅が大好きということで、大いに意気投合し再会を約束しました

定年後の青写真

 "定年を迎えたら"と考えていたことが沢山ありました。忙しくて10年来出来なかったリトグラフの制作を再開し、妻にコンピューターの操作を教え、クラシックギターも再開し妻とのデュエットをと、定年で勤務を終えることによって生まれるであろう自由時間をフルに使う青写真があったけれど、3ヶ月経った今、その一つも実現していません。

 

 定年前は、深夜まで妻に見せていた私の背中が(昨年の初めから更に増加した教会関係の奉仕をこなすためにコンピューターに向かっていて)、その後は朝昼晩と見せるようになったと妻に言われましたが、それは心にぐさっと刺さったのは事実なのです。

 

 2010年夏、尊敬する前任牧師ご夫妻の送別会で、友人の絶唱”悲しい酒”を伴奏して以来、仕舞われっぱなしになっていた昭和39年に手作りされた”矢入”のクラシックギターを埃の積もったハードケースから取り出し、テューニングをしてつま弾いてみました。

 

 弾いている間に指もほぐれ、”鉄道員”、”太陽がいっぱい”、”禁じられた遊び”といった忘れていた筈のメロディーが嘘のように自然と流れ出て来ました。そして、妻と”アメージンググレイス”をデユエットで奏でていた時、私の心の底に暖かいものが広がっていくのを覚えました。神様が「お前に今必要なものはこれだよ」と言われた様に思いました。役員会長を一世代若い兄弟に譲り受けてもらおうと決心した一瞬でした。

 

定年記念 秋の日本の旅

 一足先に日本旅行を始めていた末娘ナタリア(10年ぶりの日 本)と教員仲間のマヌエラに10月半ばに合流し、母と叔母が加わって3世 日本の旅 代の飛騨(高山/白川郷)の旅を楽しむ幸いを得ました。

 

 18日には末娘も交え郷里津で65歳の誕生日を祝ったのち、末娘は小学校の授業の 始まりに間に合うようスイスに飛び立ち、私たちは三浦光世さんと8年ぶり の再会を、士別のご夫婦(35年前に北海道をヒッチで旅していたときお世 話になって以来の付き合い)の訪問を果たすために旭川に飛びました。

 

 ”定年記念旅行”となった今回の旅は、北海道を南下し、未だ行ったことの ない道東・函館から、みちのくの小京都と呼ばれる秋田県の角館/田沢湖を 楽しんだ後、東京お茶の水クリスチャンセンターで開催される横田早紀江さ んを囲む祈祷会に2年ぶりに出席するため上京しました。
 大都市の苦手な私 たちはそれでも横田さんと語り合え、私たちの帰国のたびに時間を作って (今回も園遊会のあと)会ってくださる國松孝次元スイス大使ご夫妻と再会 の喜びを分ち合い、高校校長という激務の間を縫って昼食に招いてくれた従 兄弟の厚情を受けたりと、短くとも至福の時を過ごす幸いに恵まれました。

 

 新幹線のお陰で、再び東北に向かい低放射線による不安の支配する福島で 県民の健康保護の為に、長崎から福島に移住しに寝食忘れて献身的にお働き になっている山下俊一教授(被曝専門医)が、私たちのために一日磐梯吾妻 や温泉をご案内して下さり、福島の紅葉と自然美を堪能いたしました。

 

 多忙 の中に、小さく無名の私たちのために貴重な時間を割いてくださるその友情 に多くを学び、そして深く感謝したものでした。その後、9月にサンクト ガーレンで持たれたチャリティーイベントJAPANTAG(日本の日)で集めら れた義援金をふくしまHOPEプロジェクトの木田代表のお届けした後、イギ リス時代からの広島の親友夫妻と福島で落ちあい、彼らが魅せられている会 津若松や奥会津、尾瀬の自然を4日かけて堪能したあと、私たちを待つ母や 旧友のいる郷里に向かいました。

 

 書き出すときりのない生涯記憶に残るであ ろう”定年記念旅行”ですが、重い荷物を引っ張りながら北に南にと移動する 旅は、体力的にも経済的にも、これが最後になるような気がします。 

 

よく年を重ねるという事

  定年を一ヶ月後に控えた最後の夜勤は、よく暴力を振るう青年が二度荒れたけれども危害が及ぶこと無く、守られて無事日曜日午後帰宅出来ました。自分では緊張していたように思えなかったけれど、帰宅して一時間ほど熟睡したのは、やはり疲れが出たのかもしれません。


 2年半前、そこが何処か、一体何が待っているか知らず、アブラハムに倣って、私たちは慣れた職場を去り、新しく出来るWG(グループホーム)そして彼らが”仕事”が出来る工房(Atelier)の立ち上げに携わる決心をいたしまた。

 

 そこには、両親が麻薬中毒であったり、性的虐待を受けたりして、知恵おくれに加え心の病いを持つ、何処にも居場所を得られなかったティーンエイジャー5人が待っていました。度重なる暴力とストレスのため、半年の間に4人の若いソーシャルワーカーが職場を去っていきました。

 

 重い知恵おくれを持つ成人には作業療法士として30年近く関わってきたけれど、血気盛んな青年に対しては未経験であった私は、スイスにおける34年に渡る職業生活の最後はかかる職場に導かれました。そんな難しい職場であったからこそ、自分の経験や力に頼らず、私たちは主に拠り頼むこと 、祈りを真ん中に据えることを覚えたように思います。


 パーキンソン病と闘うビリーグラハムが、”私はキリスト者としていかに成長するか、そして、いかに死ぬかは教わったが、いかに年をとるかは、誰も教えてくれなかった”と述懐していると知り、善く年を重ねることの難しさを感じます。ビリーグラハムとは比較にならない小さな小さな私にも、いかに年をとるかという課題を、神様は与えてくださっているのだと思います。一足先に職場を辞した愛する妻とともに、年を重ねることが祝福となり、証となれるような残りの人生を主とともに歩んでいきたいと願う日々です。

 

キューリー夫人のキューリ

 今年の夏も、私がキューリー夫人と呼ぶフランクフルト在住の友人から日本キューリが一箱送られてきました。ドイツからの郵送ですから4日ほど経っていたのに拘らず、キューリの匂いがあたりに漂い、おやつの乏しかった私の幼少時の祖父からもらったキューリを丸かじりした懐かしい想い出が蘇ってきました。


 野菜を育てる楽しみを覚えて10年以上になりますが、堆肥を使って土壌作りから始める野菜作りは結構重労働で、無農薬での栽培は計り知れない時間を費やします。この大事に育てた葉の付いた大根や枝豆をせっせと運び、買う事の出来ない野菜を前に日本人の喜ぶ顔を見るのが楽しみとなっています。

 スーパーで買えば僅か数フランで買える大根に、どれだけのエネルギーが注がれているか知る人は少ないでしょうが、神様は、色とりどり味様々な野菜を人間にお与え下さったことに感謝してお楽しみくださればそれでいいと考えています。


 残念なことは、キューリー夫人に我が自慢の大根を未だに召し上がっていただいていないことです。いつか、食していただくのを夢見て、何本かは干して、はりはり漬けにしてお届けすることを楽しみにしています。そのはりはり漬けを口にして、『流石、だいこん役者!』と呟かれるでしょうか。

オッ ヨシ君 お久しぶり!

今年の4月13日、兄の法事に出る為に一時帰国しました。朝7時に成田空港に降り立ち、東京駅と仙台駅を経てローカル線に乗り継いで、ようやく利府駅につくとヨシ君が笑顔で私を待っていました。優しく人懐っこい笑顔は、フライブルグでサッカーの監督になることを目指して留学していた昔そのままでしたが、3年ぶりに見る彼は少し痩せてしまったようでした。厳しい勉学と、大震災被災地支援活動オアシスライフ・ケアの中核的な働きとを両立させているゆえ無理からぬことなのでしょう。


  現在、ヨシ君が身を挺して被災地のなかで働くオアシスライフ・ケアに支援金を渡した後、このグループが、”明日の為の働き”の一環として支援している(南三陸町志津川の内職支援(革細工)と金華ほや帆立養殖復興支援を行っています。)石巻市の海友支援隊に向かいました。石巻市は 3837名の犠牲者を出した震災後一年経ったいまでも、港湾部に向かうにつれ、凄まじかった津波被害の状況があらわでした。


 ここで活動している海友支援隊メンバー4人は かっての高校同級生で、4人とも家や多くの身内、友人を一度に失うという身を切られるような試練に遭い、支え合おうと集まった同志です。代表の稲井さんは30人も身内や親友を一度に失い、つぎつぎと葬式に出ている間に、精神が錯乱し自死まで追い詰められた経験をお持ちです。彼を自死から救ったのは、かっての同級生のほや帆立養殖業が津波で壊滅し、一挙に生活基盤を失い悲嘆に暮れている漁民を目前にし、救われた自分の命を、同級生と漁民のために捧げたいとの思いでした。


 やはり同じ同級生で石巻で宝石業を営んでいたAさんは、一挙に3つの店を流されてしまい、Cさんは、家屋を失い、高校の体育館で半年の避難生活を余儀なくされました。あの震災がなかったら、海友支援隊に4人の高校同級生が結集することはなかった筈です。


 彼らにスイス教会や我が娘たちからの支援基金を届けると、遠いスイスからも支援されているということに、漁民たちも支援隊のかたも大きな勇気と感動を頂いたと喜ばれました。稲井さんは、支援金が届くと、そこにお金以上に、愛を深く感じて、みなで手を取り合い、感謝で涙ぐんでしまうのです、と仰られていましたが、私は”相手が目に見える”支援の必要性を痛感させられました。 www.kinka-hoya.com/report3.html#20120413

 翌日の午前中はヨシ君の案内で、仙台市で多くの犠牲者を出した若林区、宮城野区そして名取市などの被災地を廻りました。かって住居が立ち並び、その”瞬間”まで普通の生活が営まれていた痕跡のみ残る、見渡す限りの荒亡とした跡地を前に、想像を越える被害の深刻さと被災者の苦悩を肌で感じました。


 丸一日と本当に僅かな滞在時間でしたが、東北の人々は”忘れられていく”という危機感を強く持っており、一人でも多くの人が、たとえ”興味”のみが動機であっても東北の地を訪れて欲しいと願っていることを肌でもって知りました。


  ”復興”は今始まったばかり”です。が、震災後生まれた多くの支援団体は次々と活動を終えようとしています。スイスでももう震災のことはマスコミにも扱われなくなり、当の日本人の間ですら、もう十分寄付したではないかといい、忘れ去りつつある中で、私たちは、これからも可能な限りの支援を続け、世界に向けて発信を続けていかねばならないと痛感しました。助けを必要とする同胞のため身を粉にして働いている若者として、一回り大きく成長をしたヨシ君の姿を後にして、東京に向かう新幹線のシートに身を沈めました。

京都のさくら

今年は日本でも春の訪れが遅く、そのお陰で4月半ばに兄の法事にでるために一時帰国をして満開の桜を23年ぶりに眺める幸いを得ました。

 

長い間、日本の桜を見ていなかった弟に、心優しかった兄がこの機会に見せてやろうと計らったかのように私には思えました。日本の桜は、スイスやヨーロッパでみるものとは全く違って、その美しさを愛でる私の中には日本人とのしての血が流れていることをはっきりと認識した瞬間でした。


 今回お供したiPadで京都の桜をビデオを撮ってみましたが、その”感激”を少しだけお分ち出来れば嬉しく思います。

一人きりの兄を失くして

 3歳上のたった一人きりの私の兄が3月1日早朝に他界いたしました。ひどい苦痛を伴う人工透析を行う前の、しかし安らかに眠るような表情だったそうですが、長い糖尿病との闘病生活の末、体がぼろぼろになって迎えた死でした。一人きりの兄を失くすのは言い様もなく寂しい事です。母より先に逝ってしまった兄の無念と悔しさを思うたびに涙が出てきますが、同時に、兄は筆舌に尽くしがたい苦しみと堪え難い痛みから解放されました。また、兄を献身的に看護してきた義姉の体力精神力も限界に達していましたから、悲しいけれど、これで良かったのだと自らを慰めています。

 日が暮れるまで外で遊んでいた少年時代の兄は、祖父のそばで一日中でも絵を描いて一人で遊んでいた私とは、性格もまったく異なり、中学を出て寿司職人となった兄と、全寮制高校生活から京都での勤労大学生を終えるやいなや海外放浪の旅に出てしまった私とは共有する思い出も接点もほとんどありませんでした。50数カ国を廻る放浪の旅も3年が過ぎたころ、故郷からは寿司屋が行き詰まって多額の借金を抱えた兄夫婦と母の苦境が伝えられてきました。


 帰国すれば何が待っているのかも知らず、片道切符でソ連を経由し、ヨーロッパ、北南米に渡った私は、3年半ぶりに 故郷の土を踏みました。兄は、寿司職人として一流ではあるけれど、商売人としては不適格で、優しい性格から友人らの保証人となっていたため、他人の借金さえ背負いきれないほど負っていました。私は、銀行からやくざまがいの高利貸しまで頭を下げて廻りながら、借金の返済をしていくといった、夢にも考えた事のなかった苦しい日々でしたが、不思議に兄を恨むことがなかったのは、芽生え始めていた幼い信仰と、やはり、イエス様の支えがあったからだと信じています。
 その3年に渡る借金生活の苦闘がほぼ一段落すると、兄家族は東京に新生活を求め引っ越しをし、私は恋人だったスイス人女性と結婚するために渡欧いたしました。


 それから、27年もの歳月が流れ、なんと私の住むスイスで兄と再会し、一年足らずという短い期間でしたが、同じスイスという国で生活し、生まれて初めて心を通わすことになるとは夢想だにしなかったことでした。
 
 ベルン市で日本料理店を営む田中伸二さんがグリンデルワルドに出す支店を兄夫婦に任せたいという申し出を、あの臆病ですらある兄が受諾したことも主の導きであったと信じています。兄は田中さんの期待には添えなかったのではないかという忸怩(じくじ)した思いはあるけれど、田中さんのオファーがなかったなら、私たちの生涯に、兄弟としての心通う交流もなかったであろう事を思うと、田中さんと、その背後で働いて機会をお与え下さった主にはどれほど感謝してもしきれないと大きな恩を感じています。
 
 ごく内輪だけの告別式には私は帰国しませんでしたが、母から、兄の49日には帰ってきて欲しいと乞われました。仏教の法事にでるのは、キリスト者となった私には、当然、大きな抵抗がありますが、尊敬する牧師先生から「お母さんを慰めるために帰っておやりなさい、何事も愛を優先しなさい、法事にどう振る舞うかは主が知恵をくださるから」といわれ帰国を決めましたが、4月は休暇を取る職員が多く、まず無理だろうとは思いつつ尋ねたところ、リーダーは私の替わりに妻が勤務するなどの工面をして一週間の休みを用意してくれました。ここでも奇跡をみさせて頂きました。


 惜しむらくは、スイスに住む私は東京の兄に、死がすべての終わりでなく、永遠の命に繋がるという希望に満ちた福音をことばで十分伝えられなかったことです。同じ糖尿病を患っておられ今は亡き芳賀正先生も、人里離れた病院に入院していた兄を一日かけてお見舞い下さり、きっとイエス様のお話もしてくださったと信じていますが、イエス様の救いにまで導けなかったのは私の愛が足りなかったからと後悔しています。そんな折、ドイツに住むある方からいただいたメールは、私にどれほど大きな慰めを与え、文章のなかに主の深い愛を感じたことでしょう。

 

...........貴兄のお心にあることをかいま見せてくださり、本当にありがとうございました。長年、非常な苦しみと痛みに耐えてこられたお兄様に、天のお父様は「もう十分に苦しんだよ」とご自身のふところにお迎えになられたのではないでしょうか?


 貴兄のお祈りと福音に従った生活は、福音を口で伝える以上にお兄様に語ってくれていたと思います。神様の愛と憐れみは、私たちの想像をはるかにこえています。罪だらけの醜い私たち人間には、神様の慈愛と憐れみの深さも大きさも到底考えられないのでしょう。神様は人間とは全く異なっておられるという事実も。


 愛するお兄様は、今この神様からどれほどの愛を受け、地上での堪え難い痛みも苦しみもすっかり忘れて、新しい天上のからだで天国を自由に動き回っておられると想像します。神様ご自身がお兄様の顔から涙をぬぐってくださるのです。そして恐らく、お兄様は以前よりもっと貴兄に近くなられたとも思います。どうか慰めの主が、貴兄の心をご自身の慰めで満たし、その慰めで貴兄が、他の人を慰めることができますように。                                             

40年ぶりのコロンビア/ペルー

「コージとハイディは、いつコロンビアに来るのかい?」2000年にコロンビア人の妻マリアセシリアとポパヤンに移住し、自らコーヒー園を営みながら、最高品質のコーヒーを他より5割近い価格で買い上げることにより貧しいインディオを支援する”プロジェクト”を立ち上げ、その推進のために毎年スイスに還る妻の弟のハンスルエディは、大好物の日本食を口にしながら尋ねたものでした。

 

 いつの間にかそう問う事を止めた義弟が、「ホームページにビデオを入れたいのだが、、」という彼の願いを叶えるためと同時に妻の”還暦祝い”にと思い切って”犯罪と麻薬の国”としてのイメージの強いコロンビアに10月末から行くことにしました。


 初めの2週間はポパヤンに住む義弟の家を拠点に、100km東(ひどい悪路で車で4時間かけて!)の谷間にある、プロジェクトに参加する、美しい大自然のなかの貧しいインディオの家族を2日間に渡って訪れ、彼らの質素極まりない生活を直に見る体験は得難いものでした。そして 想像していたものと異なって,実に簡素な生活に満足し、コロンビアの地にすっかり根をおろして生きる義弟夫婦の姿に感動し、私たちに出来る事は何でもしようという気持ちにさせられました。外国からの観光客がまず足を運ぶことのない秘境と呼んでよい地や、雪の舞う4650mのプラセ火山に、薄い大気に喘ぎ喘ぎ死ぬ思いで登山した経験も、忘れられない思い出となりました。


 南米は、私にとってリュック一つで半年間一人旅をして以来40年ぶりの青春の思い出の滲んだ、妻にとっては初めて”夢が現実”になった土地です。ペルーには数多いマチュピチュなどの世界遺産では観光客で溢れ還りすっかり様変わりしていたものの、変化に富む雄大な大自然やそこに住むインディオの貧しい暮らしぶりは変わる事なく現代にいたっていました。この想像を絶する貧困と高失業率は犯罪を生む温床となり、特にスラムの広がる都市部では決して気が抜けないのが、悲しいかなラテンアメリカの現実です。


 コロンビアでは、ほとんどを義弟妹と行動を共にしていたお陰で遭わなかった犯罪ですが、リマでは着いた翌日比較的安全とされる新市街ミラフローレスの海岸への小道でピストルとナイフで武装した2人組に襲われました。ハイディの叫びと、高校時代していた私の”空手”に恐れをなした犯人は、幸いにも逃走してくれたものの、一つ誤れば命を落とす肝を冷やした一瞬でした。そんな経験にも拘らず,ペルーは数多く訪れた国々のなかでも、最も印象深い、忘れられない国となりました。

 

もう一つのグループホーム

築250年以上の旧い農家に住む私たちが、秋期休暇から還ると、冷蔵庫のような部屋が待っていて、薪を焼べて人が住める程度の室温にあげるまで数日かかるのが常です。(ですから、冬に泊りがけで出かけることはまずありません。)しかし、今年の11月25日コロンビア/ペルーの旅から帰ると、家は心地よい室温に温められていたのです。


 今年の3月末からアパート改装のため退去を余儀なくされた次女サマラ家族が新居に移る4月なかばまでということで、部屋数だけは多い農家である我家に移り住んできました。2人だけの静かな生活に革命が起きたように俄に賑やかになって、1歳2ヶ月になる孫娘ラティーシャ・あゆみを中心に、以後、ジージとモミ(孫の呼び名)は目の回る様な日々を送ってきました。


 職場であるグループホームでの勤務が終わると、もう一つのグループホームーやたら忙しく、しかし賑やかで楽しい3世代共同生活が待っていました。次女夫婦の新居移転計画が振り出しに戻って、この孫娘を中心とした笑いの絶えない共同生活は、ジージは調理班モミは家事班としての役目が与えられ、冬が来るまでそれらの任にあたることになりました。

 

「ラティーシャは世界一しあわせな子どもだね」小学校教員を一年休職し、アルバイトをするため、時折、古巣に戻った末娘ナタリア(その期間は、3階建ての家が上から下まで満室になりました。)が、朝から晩まで祖父母や両親、そして伯母に遊んで構ってもらえるのを見て言ったものです。考えれば,日本も、スイスも一昔前まで、子どもが育っていく当たり前の環境だったものです。その楽しい3世代生活も、次女家族が職場近くの住まいに12月17日に引っ越しするにつれ終わることになりました。私たちは、7ヶ月余り、可愛い孫の日々の成長を身近に楽しめるという、神様からの大きなプレゼントに心から感謝しております。

 しばらくは、幼子の声が消えた我が家を寂しく思う日々が続く事に違いありませんが、私たちは愛する子や孫に会おうと思えば何時でも会えるです。愛する親に、子に、伴侶に,友に 一瞬にして引き裂かれ、会おうとしても,この世では絶対会えない悲しい運命に遭遇した祖国の同胞の塗炭の苦しみと悲しみを思うと胸がつぶれる思いです。直接、助けにいかれない海外に住む私たちは、何も出来ないという忸怩した思いを抱え,義損金を送り、チャリティーバザーに出店してきましたが、祖国の復興を祈り、これからもどんな支援ができるか探っていきたいと願っています。

2011年12月10日

奇跡のピアニスト

Juliaというピアニストの名前を初めて目にしたのは、8月4日から英国で開かれるヨーロッパ・キリスト者の集いの参加の準備中の6月半ば届いた、ケンブリッジ在住の

友人から届いた英語のメールでした。


 作曲家、指揮者のブルガリア人の父、日本人ピアニストの母の間に生まれ、9歳のとき母をガンで失い、もともと結婚に反対だった生家を追われた後、言葉も分からぬブラジルに音楽の勉強に旅立ちました。8年間の留学中、2度までも死に瀕する病をえたが、奇跡的に回復し、母国日本の福島に帰りました。しかし、東日本大震災で全てを失った父親と家族は失意のなか父の祖国のブルガリアに引き上げてしまい、日本に残されたのは妹のみという、数奇な運命を辿ったのが赤津ジュリアさんのことが記されていました。

 そのピアノを持たないピアニストのジュリアさんを我が娘のように愛し、自宅を解放して練習用のピアノを提供していらしているのが、京都の旧友の杉野さんです。その杉野さんが、ジュリアさんをともなって英国に来られるということを、そのあと知りました。ジュリアさんは大阪に住む妹さんと二人っきりの天涯孤独のなか、何もかも失ったいま、主のみに依り頼み、ゆたかな賜物で、自分と同じように全てを失った、悲しみの河を渡る同胞に希望と慰め、癒しと希望を届けたいと演奏活動をされていますが、その生きる姿に私は深い感銘を受けたものです。

 そして、キリスト者の集いのあと、ケンブリッジで東日本大震災の被災者へのチャリティーコンサートを開くが、いのちのことば社から出ている”百万人の福音”という雑誌の12月号のグラビア記事のために、コンサートの写真撮影と録音をして欲しいとの依頼を杉野さんから受けました。私は集いのあと、英国の友人夫婦を訪ねる予定でしたが、祈りの中で、ケンブリッジでこの依頼を果たすように導かれました。


 8月7日の古都ケンブリッジのエマヌエル教会堂での、満員の聴衆を前にした赤津Stoyonov樹里亜さんの、全て暗譜で紡ぎだされた魂を揺さぶるような素晴らしいピアノ演奏に、聴き入る英国人は感動で言葉を失ったようにさえ感じました。

オープニングデーを迎えて

「今月は、シモン君の起こした暴力事件がたった一件だったよ。昨日の僕との殴り合いだけ。1月は11件もあったのに、、」グループホームの若い職場のリーダーが私に言いました。「それで、初めに手を出したのどっちなの?」こういった冗談がでるほど、ここ一ヶ月あまりに職場の雰囲気が和やかになったのは、決して偶然ではありませんでした。
 
 アブラハムに倣って、新しい職場がどこにあるか、そこに何が待ち受けているか全く知らずに、昨年の6月、私たちは新しく作られたグループホーム(Wohngemeinschaft)で働き始めました。そこには、知恵おくれに加え、精神的にも深い傷を負う5人のティーンエイジャーが私たちを待っていました。初めから殴る噛むといった職員への暴行が絶えず、6ヶ月の間に、4人もの若い職員が去っていくという職場で、私たちは正直いつまで働きが続けられるのか、全く、確信は持てませんでした。


 私たちが、彼らとは祖父母ほどの年齢差があって、どれほどシモンたちが攻撃的になっても、腕白坊主に接するがごとく、暴力で力の優位を示すことをしなかったということもあるでしょうが、通勤前、今日一日、必要な愛と忍耐と知恵をくださいとの祈りに主が応え、私たちを守ってくださったものと感謝しています。
 
 そして、6月、このグループホームは満一周年を迎えました。いままで、どの施設にも居場所がなかったティーンエイジャーのが、私が指導する工房で生み出された、手透き紙や織物、木工品などの手工芸品がオープンディで展示され、訪れた大勢の人の関心を引きました。賞賛の中で、はにかんだ笑顔をみせるティーンエイジャーの姿を見て、主の導きはいつも正しいと、改めて主を賛美したものでした。


神のなされることは、みな、その時にかなって美しい。伝道の書3:11


工房から生まれた作品例

もう一つのクリスマス その1

主はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなた の生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示 す地へ行きなさい。」 創世記 12:1
  この聖句は、一年前、私た ち夫婦が慣れた前の職場を去 り、そして、同じ福祉法人の 理事長から打診された新しい 職場(それはどこにあるの か、どんな職場であるのか何 も分からずに)に移るにあ たって、大きな勇気を与えて くれました。私たちは、主に 全き信頼を置いて、未知の地 に、あえて新たな一歩を踏み 出すことになりました。


  主が準備しておられた職場は決して易しいものではあり ませんでした。昨年6月にスタートした新しい職場は、知 恵おくれに加え、虐待や養育放棄などが原因で精神に障害 を負った、一部には暴力傾向もある、ティーンエイジャー 5人が共同生活をおくるグループホーム (Wohngemeinschaft)で、そこで勤務することになった 私たちはより一層主に依り頼むことを通じて、主の助けを 日々経験することになりました。


  そのグループホームで、ノンクリスチャンであるリー ダーから、家に帰れない、帰ろうともしない、帰るべき家 も待つ親も無い若者とともにクリスマスを過ごしてくれな いかと依頼されました。私たちは、それが神のみ業に完全 に依存するものになるであろうことは自覚していました。 が、マルコ(仮名)が、クリスマスの一週間前に、母親か らクリスマスに帰宅することを禁止されたことも知って、 私たちは不安の念に襲われました。


 なぜなら情緒不安定で多動性のマルコは、もうひとりの 暴力癖があり精神に深い傷を負うシモン(仮名)と毎日争 いを起こし、最後には、いつも殴り合いの喧嘩となってい たからです。もし私たちがギターを伴奏に賛美しようもの なら、彼らは怒って降誕祭から“神なんぞいるものか”と飛 び出してしまうであろうことは容易に予期出来ました。


   すべてをご存知の主が、なぜこんなに難しい若者ととも に御子の誕生を祝えという困難な任務を、私たちにお与え になったのか正直いって理解できませんでした。しかし、 主はそのとき全てを準備していて下さったのです。マルコ が週末にガールフレンドと彼女の両親とともに自由福音教会の礼拝に出て、”こんなに気にいった教会はいままで無 かった”と彼から聞く事になったからです。


  そして、24日が来ました。私たちが職場に着くと、シ モンとリーダーが衝突していて、殴り合いになり、叫びと 怒りが満ちていました。しかし、リーダーが帰ると、シモ ンは幸いなことに落ち着きを取り戻しました。
 その後、クリスマスのためのごちそうやデコレーション の準備を若者たちと始めました。大げんかしたシモンは、 私にクリスマスツリーを飾ってよいかと尋ねたので”もち ろん”と返事すると、彼の顔は喜びの表情で溢れました。 そして彼は細心の注意をもって、壊れやすいガラス玉など 樅の木の枝にぶら下げていきました。


  平和がグループホーム に戻ってきました。誰も が喧嘩せず、ステレオの 音量を最大にせず、クリ スマスにはテレビを見る と主張していたマルコも 見ようともしませんでし た。クリスマスディナー の合間に読んで聞かせた
御子の誕生に関する物語や証を妨害する者も無く、ルカに よる福音書によるイエス様の生誕の話まで、興味を持って 聴き入りました。


   他の若者たちには親戚や知人からプレゼントが届いているのに、マルコには親からさえもプレゼントはなく、仲間 が箱からプレゼントを喜びながら取り出すのを見ている他 無かった彼は、それでもいらだつ事なく、むしろ幸福な表 情でいました。


  私たちにとっては、全てが終わったあと彼らが一様に 言った”こんな素敵なクリスマスを祝ったことなんて今ま でなかったよ。これから、クリスマスは今日みたいに祝お うよ”の言葉ほど、大きなプレゼントは他にはありません でした。


 主は、初めから終わりまで、私たちのクリスマスにとも に居てくださり、主にある平和と喜びを持つことができた ことを感謝し、賛美しています。
HM

もう一つのクリスマス その2

財産、名誉、キャリア、影響力、権力、高収入、それらを私たちは追い求める、、しかし、私たちは世の中にあって孤独で、満足する事を知らない。それどころか、もっともっと、と追い求め続ける。しかし、心は満たされることは無い、、。商業ベースでは歌われることのないPeter Strauchのクリスマスソングを聴いた後、前列で聴いていた元バンド仲間のWさんが、振り向いて“コージ、この歌は僕のことを歌っているんだよ”と私に告げました。Wさんはエンジニアとマネジメントの専門家として、様々なプロジェクトに参画し、キャリアを積み、高収入を得て家も購入し、スコットランド人の奥さんと2人の子どもに恵まれ、いわゆるこの世の勝ち組に属していました。
 
ところが成功の絶頂にいたWさんは2年ほど前、脳腫瘍という病魔に襲われ手術が受けます。手術後間もなく、頭痛と闘いながらもストレスに直にさらされるプロジェクトに参加しますが、表情は冴えず、私はWさんが寿命を縮めているようで心底心配いたしました。私も30年近く勤務した障害者施設に米国流のマネジメントが導入され、職場環境が極度に悪化しストレスにさらされる日々のあと、新しい職場に移る事が出来て、心身ともすっかり健康を取り戻した体験を彼にも話しました。
 
今年に入って、Wさんの会社の創業者の社長が引退し、跡継ぎの息子が数字優先の米国流近代マネジメントを持ち込み、40年以上も会社に尽くしてきた社員を給料が高いという理由で首を切られ、リストラを始めたときは、流石のWさんも、今までの信じて歩いて来たキャリアの道に疑問をもったようです。そのとき、K町の養護学校でHauswart(用務員)をしているSさんから仕事にこないかと誘われましたが、障害児との接触、輸送、施設のメインテナナンスという全く未知の仕事で、収入も何分の一となり、いままで積んで来たキャリアもまったく役立たない世界に飛び込むべきかかなり悩んだようです。
 
久しぶりに明るい表情を見せるWさん。この8月に始まった、日々言葉を発せないほど重い障害をもった子ども達との“生活”と“仕事“の歓びを私に話してくれました.「車椅子をミニバスの床に固定しようとかがんでいる私の背中を、言葉を一言も発せぬA君が、幾度もそっと背中をさすってくれるんだ。口ではいえない”ありがとう“”ぼくは君が大好きだよ“をA君はそうやって伝えてくれたんだ。嬉しかったよ、この仕事について本当に幸せだと思うよ。捨てるに捨てられなかったキャリアや成功、収入といったものも、これでさっぱり別れを告げることができて、僕の第2の人生が始まったんだよ。」私は心の底まで暖かくなり、近い機会にギターの合奏をまたやろうと約束して別れをつげました。

見えない英雄

 東スイスねっとわーくという日本人会の代表を未だにしている関係で、毎月 スイス各地の日本人会会報が送られてきます。なかにはテシン州のように二 カ国語で構成されている会報もあったりで、それぞれ土地柄や日本人会を構 成するメンバーの個性が現れていて楽しませて頂いています。なかでも、毎 月もっとも楽しみにしているのはチューリヒ日本人会(JCZ)会報“エーデル ワイス”で、特に会長の青砥玄さんによる巻頭文です。 

 

 いま試練のまっただ中にある日本航空のスイス支店長として、ビジネス最 前線に立つという激務の合間に、日本人会の会長職をこなされ、毎月、異 なったテーマで感動を呼ぶ巻頭文を書かれている事実に、あの小柄で青年の 面影さえ残した青砥さんのどこから、こんなエネルギーが出てくるのか不思 議でなりません。自ら魂を動かされ感動した事柄を記してのみ、読む人に感 動を与え、人生を変え豊かにできると青砥さんは信じておられます。そのた めの読書量も多く、古典から現代作品まで読まれその知識量たるやら、私は 恥ずかしくて穴があったら入りたくなってしまいます。私はスイスに住む同 じ日本人として、心から尊敬する日本人をもつ幸せをいつも感じています。 OSNニュースレターの5月号には“見えない英雄”というテーマで、その青砥さんにエッセイを書いていただきま したが、乗り物のなかで航空機が、なぜ飛び抜けて安全とされるのか、JALがなぜ世界一の定時発着率を達成出 来たか、その秘密に触れられていました。

 

 私たちは、まず目にみえるところ、例えばサービス、マイレージ、イ メージ、料金といったものに関心を注ぎます。マスコミが過度に発達した現代社会は、目にみえるものに、いわ ばうわべに最高の価値がおかれます。米国のみならず、世界が自分を若く美しく見せるため、 何億という人間が 飢えている、僅かなお金の為に何十万という少女が売春を強いられているという悲しい事実がまるで存在しない かのように、美容整形、ドレス、エステ、グルメといったもにに途方もない金とエネルギーをつぎ込んでいま す。

 

 青砥さんのエッセイは、日が当たらないところで、裏方に徹して、人々の安全と、信頼される正確な運行に 著しい働きをする人間像にスポットライトをあてて、その風潮に一石を投じるものでした。 エーデルワイス7月号の巻頭文も、イチロー選手や松井選手の話が出て来て、大変感銘をうけました。人は、少 しでも有名になると、自尊心と傲慢さが持ち上がり、周囲を見下すようになるのですが、松井選手は、クリス チャンでもないのでしょうが、イエスさまの教えを忠実に実践されているように感じました。お手伝いにくる年 配の女性にもきちんと頭をさげ、感謝の意を表している松井選手の姿を容易に想像出来ます。私も、青砥さんが 巻頭文で伝えた内容によって、松井選手を大好きになりました。 

 

  青砥さんは、1979年英国のスタッフフォードで暮らておられた若い頃、各家庭を廻り、家事手伝いや、身障 者のお世話など、ボランティアとして身と挺して、さまざまな奉仕をするというお働きをされました。その一軒 に、第2次大戦中、シンガポールの日本軍捕虜収容所で強制労働に服し、日本兵による拷問や虐待を受け、日本 人に激しい恨みをいだいたままの英国人紳士が住んでいました。その老兵との出会いと,涙ながらの赦しを乞い ながらの心からの奉仕に、紳士の心は遂に溶け、和解が成立したわけですが、いまの青砥さんのお人柄は、この 得難い体験のうえに成り立っているものと私は信じています。このことは、また別の機会に述べたいと思いま す。 

 

 

アブラハムに倣って

 障害が重くて外の作業所や工場に働けない人の為に工房をと、OSNほかご理解いただいた多くの人々の支援により、健常者と障害者が共に住むグロスファミリー内の“やぎ工房”は、全盲で車椅子に張り付いたままのHさんと、重い脳性麻痺のAさんとともに、2006年の3月、立ち上がりました。それまで全盲で重い障害のため一日中、虚空を眺めて何もせず過ごすしかなかったHさんが、支援金で購入した卓上ドリルなどの木工機械を用いて一年かけてKugelbahnを作り、物を作る楽しさと自分でもやれるという自信を身につけ、そして2年後には、ミニチュアながらも夢の家 Traumhausを建てることもできました。同時に、やぎ工房からは手透き紙や、様々な手工芸品がAさんの手からつぎつぎと生まれでてきました。彼らに、手を使って物を作り出す歓びと楽しさを伴う営みを与えることが出来たことは、私にも大きな恵みと満足感と幸せをもたらしてくれました。

 

 このグロスファミリーは、私が定年になるまで平穏に働ける人生最後の職場になる筈でした。ところが、丁度一年前、事情は一変します。やぎ工房で、そのいびつに歪んだ指先で沢山の美しい手工芸品を編み出してきたAさんが、突然、他の施設に移住させられました。どのような理由があったのか、障害者には自分が住む場所を選ぶ権利はないのだろうかと、この人権が尊ばれるとされるスイスで起きた出来事に、未だに狐につままれたような気がしています。この事件は、グロスファミリーのリーダーやワーカーに深い陰を落とし、片肺飛行となった“やぎ工房”は、だんだんと失速し、リーダーの病気も重なって、グロスファミリーそのもの存続すら危ぶまれることになりました。幸いこのグロスファミリーは、他の福祉法人の翼下で存命できることになりましたが、居住者の数も減り、州からの援助も無い状況の中で、私たちの居場所の確保も困難となりました。

 

 人の目には、定年を2年半後に控え、慣れた職場を離れ、なぜ生みの苦しみも伴うであろう別の進路を選んだのか、実に愚かなことに見えるかもしれませんが、私たちは5月いっぱいで今の職場を離れ、つい先日知らされた、別の村に新たに出来るグロスファミリーWohngemeinschftの立ち上げに、若いリーダー夫婦とともに6月1日から参画することに決めました。4年間働いて、私たちにすっかり慣れたHさんはじめ、障害者の人々との別離が待っていますが、それは言葉であらわせぬほど寂しいものです。また、新しい職場でどんな人が、どんな事が待ち受けているのか、どれほど仕事量や勤務時間が増えるのか、予想もつかないので不安に襲われるときがあります。

 

 しかし、私たちは、あの高齢に拘らず神の召命にしたがって慣れ親しんだ生まれ故郷を捨てて荒野にでたアブラハムに倣って、未知の地に行く決心をしました。当然、見えない将来に恐れはありましたが、同時に、不思議にも正しい選択をしたという平安もあります。新しい職場で“やぎ工房”が再興できるのかどうか、全く予想はできませんが、可能となれば自分に与えられた賜物を活かし、弱き立場に置かれている人々の幸せのために微力を捧げたいと願っております。

 

天国はHさんのもの

"Haesch du mi gaern?""僕のこと、好きかい?”全盲で重い障害を負い車椅子に張り付いたHさんは、4年たっても、日に幾度も私に尋ねます。”Klar,i ha digaern!”もちろん、大好きだよ”と答えると、Hさんは、腕力の残る右腕でしっかり私の頭を抱え込み大きな接吻を私の頬にくれます。嬉しそうに笑った口のなかには、40代半ばというのに歯が一本もありません。視力がどんどん後退し、歩行も不能になっていくなかで、絶望したHさんは周りにあるものを手当たり次第破壊し、自他傷癖も激しくなり、以前居た施設で、全身麻酔をかけられ全ての歯を抜かれてしまったそうです。


 そんな辛い過去をもったHさんですが、私たち夫婦に良くなつき、私たちの勤務を心まちにしてくれるようになり、限られた時間でしたが一緒に木工をして幾つかの作品を作るようになって自信を持ったのか、心も安定してきたようです。そのHさんに、あと10日で、私たちはお別れしなければならないと告げることが、あまりに辛くて出来ずにいます。いずれはくる別離は、お互いに耐えるしかないのです。どうか、イエス様、自分を守る術を知らないHさんを慈しみ愛し、”i ha di gaern"と、心の底から言える介護人をお与え下さいと祈る他は、術がないのです。


 30年以上も前に居た養護学校で、クリスチャンであったB先生がH君に“天国では、目もみえるし、歩けるし、苦しいことも痛い事もないんだよ”と言われた事を記憶力のよいHさんは、未だに良く覚えていて、天国にいくことを心底楽しみにしています。”Bisch du gleubig?""コージ、君はクリスチャンか”と尋ねるHさんに”Ja, i bi"" うん、そうだよ”と応えると”I au""僕もだよ”といって微笑むHさんの笑顔はまるで少年のようでした。まことに天国はHさんのような人にあると信じます。

Spring is now at hand.  骨折り儲け

大腿骨骨折という考えてもみなかったアクシデントに見舞われてから、3月22日で2ヶ月を数えます。この日の出来事を、私は生涯、決して忘れることはないでしょう。

 

 1月22日の夕と週末に迎える来客のために買い物をアッペンツェルで済まし、料理の支度にかかるまでの自由時間を、Gaisのクロスカントリーのためのスキ−場で、抜ける様な青空の下で、クロスカントリーを楽しんでおりました。駐車場まであと1kmという地点の、なだらかな傾斜の先にあった一見何の問題もない氷面上で転倒するやいなや激痛が全身に走り、一歩も動けぬようになりました。一瞬の出来事でしたが、自分の脚が180度捩じれたまま、微動もできず、スキーも外せないといった、自分の脚でありながら自分のものではないような奇妙な感覚がいまでも蘇ってきます。一見、危険や事故には無縁で、いわば、熟年向きのスポーツに見えるクロスカントリースキーですが、体力もかなり必要ですし、傾斜地では、あおの細いスキーではブレーキは効かず、倒れたとき自動的にスキーは外れてくれず。それゆえ、一見安全なスポーツが大怪我にいたるという落とし穴を自ら体験した訳です。

 

 その夜、骨盤と大腿骨のつなぎ目の真下が見事に折れた大腿骨に2本の長いGammaねじとそれを支える小さなねじを骨の中に入れる手術が1時間20分かかってされました。40年前、盲腸を手術して以来の入院でしたが、強力な鎮痛剤で手術箇所の痛みは全くなかったものの、麻酔のために下半身の機能が麻痺していて、膀胱が破裂するぐらい小水がたまっても、一滴も出てくれません。その苦しみで一睡も出来ませんでした。手術をうけた人々の辛さ、そして、病む人々の耐えておられる言葉では表現できぬ激しい痛み、苦しみを、そして、今日まで健康に恵まれていた私が、病院生活の大変さ辛さと、そのお気持ちを、自らが体験することを通じて、 健康の有り難とともに良く理解できたのは感謝でした。

 

 警察庁長官をされていた元スイス國松孝次大使は、15年前オーム事件が社会を騒がしていたとき捜査指揮を執っておられました。その折り何者かに狙撃をされ、瀕死の重傷を負われましたが、私の体験を書き送ったところ、「私の15年前の大手術は、皆さんから大変だったでしょうと言われます。確かに大変でしたが、うまい手術挨拶文をしていただいたおかげで、それほどでもなかったような気がします。ただ、手術のために尿道内に留置したカテーテルを抜いた後、尿道狭窄になり、一時、小水がまったく出なくなったことがあります。いや、その時の苦しさは、今思い出してもゾッとします。あの苦しみは、体験したものでないと判りません。松林さんと私は、あの苦しみを共有する戦友同志ですな!」という返事をくださいました。

 

  5日間の病院生活を過ごした後、帰宅前にサンクトガーレン市のKinderspitalにいる次女サマラを訪ねて、昨日深夜3時に生まれたばかりの2番目の孫娘、Latisha(ラテン語で喜びの語源)あゆみに対面してまいりました。2250gと小さめの、鼻が大きめで、小麦色の肌の日本人的な顔立ちの可愛らしい子で、しばし自分の事故も忘れ見入ったものでした。出産にあたり、胎児の成長が遅く、3本あるべきへその緒が2本しかなく栄養がへその緒を通じて十分に補給されないので腎臓に傷害が残る恐れがあったなど、難しい処置が必要な出産で、心配しましたけれど、その心配を全てを主に委ねましたが、主は最善をなし、健康な孫を与えて下さり感謝いたしました。

 

 その後、零下10度の寒気に覆われ雪と氷のなかにある農家に帰還できたときの安堵感は忘れられまん。鎮痛剤のせいか、胃は不快感に支配され,まったく食欲もでず、2日間何も食べられずにいましたが、家内がミグロで見つけた生鮭一切れを持ち帰ってくれたので、焼いて大根おろしと白いご飯とともにいただきました。やはり、私には日本人としてのDNAがしっかり刷り込まれていて、問題なくお腹に収まってくれ、久しぶりに生きた心地がしたものでした。

 

 2ヶ月経った今、室内では杖無しで移動できるようになり、現場復帰をめざしリハビリに励んでおります。長く厳しかった今年の冬でしたが、もう少しで生命感に溢れる喜ばしい春が、ついそこまで来ています。Spring is now at hand.

青年は荒野を目指す

38年ぶりのフィンランド
38年ぶりのフィンランド

 北欧フィンランドは私の青春にとっ

 

て切っても切れない特別な国であった

 

ことを改めて思います。

 

 

1970年代、日本が高度成長期に

 

入り、未だ貧しくとも夢があった19

 

60年代末から70年にかけて、その

 

一世を風靡した五木寛之の冒険小説“青年は荒野を目指す”の世界に

 

魅せられた多くの若者がナホトカ航路の乗客となり、その時代、果

 

てしなく遠かった夢のヨーロッパに向ったものでした。貧しい勤労

 

青年であった私もその一人で、片道切符と僅かな所持金を懐に、1

 

971年の3月中旬、その当時、一番安かったシベリア鉄道ソ連経

 

由でヨーロッパの入り口のスカンジナビアに向ったものでした。安

 

かったといっても片道10万円余りかかり、高卒で司法書士事務所

 

に勤務していた私の月給が1万6千円ほどでいたから、片道しか買

 

えなかったのです。

 

 

一週間後、冷戦下の重苦しい空気に包まれた共産国ソ連のモスク

 

ワ、レニングラードをやっと抜け、憧れの北欧フィンランドに到着

 

したときの、感動と興奮はフォーククルセーダスのフォークソン

 

グ“青年は荒野を目指す”のメロディとともに、フィンランドの国名

 

を聞くたびに今も鮮やかに蘇ってきます。

 

 

白いヘルシンキは、ソ連とは対照的に明るく美しく、人々も親日

 

的ですっかり好きになったものです。悲願だったフィンランドの独

 

立に、隣の覇権国ロシア帝国を破った日本に恩義を感じ、そこから

 

来た好感もあったかも知れません。私が訪れたときでも、バルチッ

 

ク艦隊を日本海で壊滅させた海軍指揮官東郷元帥の名からくる“トー

 

ゴービール”が売られていました。ユースホステルへの道を尋ねた

 

ら、頬を赤くした可愛い男の子と女の子が、雪のなか、随分距離も

 

あったユースまで案内してくれました。(今回のフィンランド/ラ

 

ップランドの旅で接したフィンランド人のほとんどは、当時と変わ

 

ることなく穏やかで親切でした。)ただ、私のような貧乏旅行者に

 

とっては、フィンランドの寒さは身に染み、スエーデンを経て南へ

 

南へヒッチハイクで下りました。

 

 

一年の予定が、気が付いたとき、私の放浪旅行は既に3年半とな

 

り、世界55カ国を巡っていました。その旅の途中、イギリス南西

 

部エクセター市の語学学校で知り合ったのが、現在のスイス人の妻

 

です。妻にとっては初めての北欧、そして、私にとっては38年ぶ

 

りのフィンランド。それぞれ異なった感慨をもって、この8月初旬

 

に開催された、ヨーロッパ キリスト者の集いへの参加のためにフ

 

ィンランドの土地を踏みましたが、こんな日がくるであろうとは誰

 

が夢想できたでしょう。人には計り知れない主の計画があったこと

 

を知ります。