麗澤瑞浪三期生 記録と足跡

麗澤瑞浪三期生 同窓会 in 金沢 2023年10月18日

もう一つの青春〜我らの麗明寮史

 麗澤瑞波高等学校第三回卒業生(昭和38年、1963年4月22日入学、昭和41年、1966年2月17日卒業)の3年間、最下級生として屈辱の日々に耐え、明るい明日に夢を描いた若者。

 

 「下級生」の名に圧しひしがれ、上級生に仕え、そして念願の上級生となり、麗明寮に君臨し、社会に、また上級学校にと巣立つまでの平凡かつ波乱万丈の寮生活、自我没却して神意実現之自治制としての寮生活を、ここに実在したS君を通して再現してみよう。

 

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その1 入寮時の洗礼と試胆会

 麗明寮は、寮補導(学園職員)一名、寮長一名。副寮長二名、そして部屋長ならびに部屋っ子で組織されていた。寮長、副寮長の部屋には。いわゆる学校側からみたブラックリストに登場する異端児が、主に配備されていた。寮生にとって、寮長、副寮長の部屋に配属されることは一種独特の体があったが、優秀な寮生達からはしばしば白眼視もされた。

 

 S君は、入寮第一日目の夜、早くも先輩によって”洗礼”を受け、早々と下級生の掟を身をもって体得したのであった。先輩に対しては、必ず敬語を使用するだの、他室への訪問は、ノックして室内からの応答を待って「失礼します。」と発し入室するなど、道で他人と会ったら、必ず会釈して挨拶するなど、事細かに先輩より教えられた。それまでの一般社会の常識、価値概念を全て覆し、高校生の自覚に目覚めさせるためには役たつかも知れないが、S君にとっては、脚が痛いという肉体的苦痛にばかり気をとられて先輩の説教などまるで頭に残らなかった。

 

 数日後、S君は麗明寮恒例の試胆会に強制的に参加させられるはめになった。夕方、先輩に連れられて試胆会会場の墓地までの道順を教わる訳だが、先輩は懇切丁寧に道順やら由来をもっともらしく教えてくれた。数十分、山道を登っていくと、小山の中腹を無残にえぐり取った、瑞浪地方特有の土葬墓地が眼中に飛び込んできた。突然先輩g、一本の老大木の前で、「おいS、この木はな、ちょっと前お婆さんが、首吊り自殺したばかりだ。手を合わせて冥福を祈ってやれよ。」と、いかにももっともらしくS君に話しかけた。

 見上げると、立ち枯れているのではないかと思えるこの老大木、じっと目を凝らして見つめていると、亡くなったというお婆さんの顔が目の前に浮かんでくるから不思議だ。さらに不思議なことは、この老大木の根元から3メートルぐらい上に一本太い枝が張り出していた。

 

 まるで、首を吊ってくださいといわんばかりに太く伸びて、こころなしか、枝の幹の近い部分に少し磨り減った部分があるように見えてきた。先輩は、無言のまま足早に墓地の中に入っていった。S君も遅れじと、帆を進めたとき、突然足元が崩れた、「ズボッ」と音をたてて、S君の足が何者かのかによって引っ張られたように足首までめりこんだ。「あっ」S君は、一瞬立ちすくんだ。先輩は振り向きざま、「ばかっ」その墓h、仏様が入ったばかりだ。砂をかけて、元どおりに直しておけ。」それだけ言うと、また無言のまま、先輩は先へ先へと進んで行った。

 山の夕暮れはつるべおとし、あたりが薄暗くなり、遠くで鳥の羽音がかすかに聞こえてくる。気をしっかりもとうと、いくら気張っても、老大木や老婆が背にもたれかかってくるようで怖い。やっとの思いで道順をを覚え、寮に戻ったが、どうも下半身が妙だ、便所に行って調べてみた、「あった」やはりそうか、、。道順を覚えて帰るだけでこんな状態では、、先が思いやられる。

 

 以後、まんじりともせず、試胆会開始までまつ。やがて四辻の犬も夢を見る頃、試胆会は開始された。走った。走った。そして、終わった。

 しかし、このとき、三浦君はついに布団から出ることなく震えていた。また、他の部屋では、古寺にいって一番大きな位牌を持ってこいというような部屋もあったが、、。古寺への試胆会は、地元住民から苦情が出たため、生徒有志が日曜日に寺の修理、掃除にと奉仕し、以後この寺は使用禁止となった。

第3期生の入学年、昭和38年をテーマに撮影された映画。

その2 初めに空腹ありき

「初めにことばありき。」は、ヨハネの福音書第1章1節にあるヨハネの言葉であるが、わが麗明寮においては「初めに空腹ありき」であった。生育期絶頂にあった寮生には食堂の3度の飯だけでは、スパルタ先生の体育授業や先輩のしごきに耐え、この山道を歩きまわることは、そもそも無理であった。寮生をまず悩ましたのは、学業のことでも色恋のことでもなく空腹であった。その救いは夜食に見出した。自習時間中でござれ、消灯後でござれ、実にこまめに自炊はなされた。

 油が十分染み込んだ分厚い鉄板が焼き物に最適であることも、いま胃拡張で悩まねばならないのも、この夜食ないし連日連夜の会食のせいである。

 

 

 現代はカップヌードルなどといった、化学調味料や保存料のたっぷり入ったまずくて高いインスタントラーメンが売られているが、その当時は、同じように熱湯を入れて3分で出来上がりという日清のチキンラーメン、トノサマラーメンが王者であったし、寮生には人気の的であった。ときには馬肉もあったが、やはり鯨肉がもてた。

 

 米だの肉だのは金を出せば手に入れる時代にはなっていたが、調理器具に金を出す寮生はいなかった。鍋よりも鯨、フライパンよりはコッペパン、丼よりトノサマラーメンと、ことごとく食器が食べ物に化けてしまった。結局、便所のマンホールの蓋とか、雑巾バケツや洗面器が調理道具となった。インスタントラーメンはネスカフェの空ビンに無理やり詰め込んで、湯を注いで蓋をすれば5分もまたなくてもできたし、狭い口に箸がわりに鉛筆2本を器用にこなし、ラーメンをうまそうにすすっていた。

 

 油がよく染み、黒々と逞しく男性的なマンホールの蓋は、寮生には鳥肌を立たせるほど魅力的で、各部屋では引っ張りだこであった。事実、マンホールの蓋で焼けばなんでも美味かった。

 ただ新しいマンホールの蓋にはコールタールが付着していて、随分注意して洗っても、やはり肉片にコールタールが付着したが、それさえもあまり気に止める様子もなく食べられてしまった。汚いと言って気にしていたら、この寮では生きていけなかった時代であった。

 

 S君の部屋でも、先輩が「おいS、バケツを洗ってこい」と命令したが、何のためか分からなかったSは、しぶしぶ無造作に水をかけただけで先輩ににバケツを差し出すと、「それで米をといで飯を炊け。」と言う。夕方、このバケツで拭き掃除をした直後であったから、慌ててS君は念入りに磨き粉でピカピカになるまで洗って飯を炊いた。

 

 そんなエピソードも日常茶飯事で、半年もすれば一年生といえども平気で雑巾バケツの飯を食べ、洗面器でラーメンを食うようになった。まさに「背に腹は変えられない」であった。

 

 

  けだし、青春は節度というブレーキを簡単に外してしまう。食える時、食えるだけ食った。因果律の原理で当然胃袋は限りなく拡がる。特に焼きそばという料理はこの上なく寮生に愛されたが、この焼きそばを腹一杯食べて水を飲むと、理論上、そばは胃の中でふくれあがる。それは非常に優れた効果であったが、しばしば下痢と胃拡張という望まぬ効果をもたらした。自習時間中、あるいは消灯後、静寂を破り廊下を突き抜ける”だだだっ”という足音は便所への急行便であった。

 消灯後の会食は寮則で禁じられていたが、それでも背に腹は変えられず、S君の部屋でも夜中に会食が始まることが多かった。いくら灯りを消しても安普請のプレハブ寮では、匂いは自ずと廊下を通じて広まった。すると、どこからともなく茶碗を箸で叩く音が聞こえてきた。S君は、それが2寮の寮補導の国語のT先生とすぐに分かった。初めてではなかったからである。安月給のT先生もやはり腹を空かしていたのであろう、誰もT先生の会食参加に反対する者はいなかった。洗面器に炊かれたラーメンを実に美味しそうにすすっておられたT先生の姿を今でもS君は思い出す。

 

 こんな話もある。

 夜更けて、先輩に米を買いに行けと言われたS君は困った。近所の農家に出かけてみたが、早や灯りはなく、どうやって頼んでよいものか思案したあげくに、こわごわ「こんばんは、こんばんは。すみません。先輩が病気で寝ているんですが、おかゆが食べたいというので、少しで結構ですから米をわけてくださいませんか?」と、まあこんな風に頼んでみたら農家のおばさんも情にもろく。米の他に自家製の漬け物までくれたりした。「人情まだ地に落ちず」の感があった。

 

 また、ある時はS君、寮の自習時間中、ひもを引っ張り通し、部屋のカンズメの見張り番をしたことがある三寮の窓辺の小川には、自然の冷蔵庫として果物等の冷却によく使用されたが、カンズメを冷やすため沈めておくと、いつでも不逞の輩が失敬してしまう。

 

 止む無く部屋長命令で、カンズメを紐でしばり、自習時間終了までS君は見張りを続けた。流石にこの時ばかりはカンズメは消えることなくS君らの胃袋のなかに納まった。

 

 会食にまつわるエピソードはいくらでもある。食料確保には大そう工夫と努力が要求された。吉永課長の目をぬすんで、食堂のおひつから飯を失敬するのは一年生の役割であり、深夜牧草地に芋掘りに走らされたのはやはり一年生であった。酒井君などは、この任務に非常に忠実であったためか、芋掘りの実習の時、夜の会食の芋を内密に確保した。しかし不幸にも川窪先生にバレ、シゴかれた思い出もある。

 

 松林君は、渋柿を一個一個糸で吊るし。干し柿を作ろうと試み、盗られぬようとロッカーに隠して干したが、干し上がったときは、皮と種だけになり、おまけにカビまで生えていて悲惨であった。

 

 川北君は、二寮の軒下に作られたスズメの巣から、親鳥のいない間を見計らって、子雀をさらい焼き鳥にしたが、熱湯をくぐらして羽をむしると、肉などは虫眼鏡を通してでしか見られないほどであったが、本人は真剣そのものであった。

 

 またS君は、事務所脇を流れていた小川の上流の空き地で、部屋の会食のため農家で買った生きた鶏の首を、上級生のいわれるまま落とし、木の枝に頭のない鶏を逆さ吊りにして血を抜き、大鍋に煮え立った湯の中に入れたあと、羽根をむしって鶏肉にした。S君は、この技術は社会に出ても役にたつと、その時は思ったものだが、一度も生きた鶏を捌く機会はなく、周りに散乱する羽根の処理が大変だったことが長く記憶に残ったものだった。すべて、青春と胃袋がなせるわざであったが、、。

 

 下級生を悩ましたもう一つのものに、先輩の名のもと”正座”と称して、下級生に”自己反省”を求める風潮があった。

 上級生の制裁は昼夜を問わず、日々繰り広げられていた。素行が悪いとか、礼儀を知らないとか言っては正座をさせた。ひどい上級生は、正座の味を知っておけと言っては正座をさせた。

 

 下級生は上級生に対して、素直さというよりも忠実さを要求されたし、上級生の権力は絶大で反抗することは許されなかった。「正座しろ!」といわれれば、即座に「はい。」と言って「よし!」と言われるまで正座させられた。

 

 S君の日記には以下のそうに記されている。

 4月某日。今朝、朝刊をまたいだという理由で、部屋長さんに正座させられた。なんと、窓のレールの上である。ムケ⚪️ン君と同じだ。恥ずかしいし、痛いし、非常に辛かった。

 4月某日。夕礼の前に、お前の声が大きすぎると言われて、玄関のざら板の上で正座させられた。でも30分程度で終わった。助かった。

 5月某日。廊下を走って部屋に入ったら、上級生がいきなり僕の胸ぐらをつかんで、階段の上に連れてゆき、階段の一番上の段にに脚を半分ほど前に出して、正座させられた。重心のとり方が難しかった。

 

 5月某日。クラブ活動の練習が辛いので、退部届を主将に出したら、目の前で破られてコンクリートの上で正座。2時間ほどして、主将曰く「クラブを退部しないというなら許すが、まだ退部するつもりならもっと正座しろ。」と言った。30分ほどねばったが、ついに、退部しませんからと言ってやっと許してらった。

 

 この項は、このぐらいで打ち切りたい。何故ならS君の日記のほとんどが、正座のこと、食べ物のこと、スパルタ体育のこと、財閥の息子の先輩Nや、小柄で鬼のような形相をした先輩Kの下級生へのしごきや虐めで占められているから。しかし、S君の日記には、「必ず、おれが三年生になったら、下級生には絶対正座をさせない。」という誓いも記されていた。

 

その3 寮生活の秘かな楽しみ

 規則、規則の寮生活にも楽しみは幾つかあった。トランプもそのひとつ。部屋の親睦をはかるという大義名文のもとに、時間の許す限り、あるいは許さなくともトランプ遊びをした。ナポレオンだの、ブリッジ百回戦だのをよくしたが、松井君など新しいルールを創り「カポネ」なる遊びを発明し、この方の才能は確かなものだった。特に試験前には、トランプ競技の敗者にペナルティを課すことが多く、必然的に俄かギャンブラーの目は血走ってきた。

 

 なぜか敗者は通常一年生。全裸あるいは全裸にちり紙一枚を持つことを許され、全寮全室の部屋長の認印もらいに、寒風を切って走り回る姿がよく見られた。無慈悲な部屋長は居留守を使ったり、時には「セミ」をやれとか、自転車をやれだのと命令した。もう「セミ」をやることもなくなった福井君は幸せを噛み締めているだろうか、、。

 

注:セミ→入り口の柱に掴まって落ちぬよう体を支えミーミーと鳴くこと。

自転車→入り口の両側の柱に両手を伸ばして体を支え、空中で自転車を漕ぐこと。

 ポーカーのときは、座布団の下にかならず予備のカードを複数枚忍ばせていたので、上級生はポーカーに負けることはなかった。ポーカーフェースというのはここから来たのであろう。

 

 トランプもそうだったが、一方に快楽が生じる時、他方に筆舌しがたい試練が伴うことがある。寝込みを襲ってやってくる布団蒸しー安眠している寮生に何人もの先輩が乗っかるやつである。あるいは、布団の中に青大将をしのばせておいたり、牙を抜いたマムシを部屋に放ったり、、青くなったり赤くなったりと。下級生はすこやかに眠ることができなかった。総じて、下級生いびりは一般化していたが、決してそれが単なる嫌がらせはなく、実際上級生はよく下級生の面倒を見たし、下級生はそれでもなお上級生を尊敬した。

 

 もうひとつ、深夜の落書きなるものが存在した。昼間の実習で疲れ切って寝ている下級生の体の所構わずマジック(油性いインク)で落書きし、朝礼の場で、あるいは風呂場で皆で笑おうという寸法である。特に、背丈の低い下級生はよく可愛がられた。吉川君、大饗君、井戸田君などは、夜になるといたずらされ、彼らの重要なある部分はいつもマジックインクで塗りたくられた痕跡があった。

 

 流行性盲腸炎で佐々木病院に担ぎ込まれた荒木君。手術前にカミソリを持って陰毛を剃りにきた看護婦さんが、例によってマジックで塗りたくられた体を見て、驚いたとか喜んだとかいうエピソードも残っている。

その4 麗明寮的洗濯とは

 やがてS君も屏風山麓の厳しい寒さを経験したわけだが、この寒さは想像を絶した。なにしろ、水洗便所の水さえ凍ってしまうほどだから、その寒さは推してしるべし。大食堂の裏にあった風呂場から寮に帰る道すがら、使ったタオルを振り回していると、寮に着いた時、タオルは棒のようになって凍っていた。

 

 凍てつく寒さにS君は震えた。S君の出身地県では。雪すら稀であったから、、。寒くなって遠くなるのは便所だが、芝山君などはズーズー弁のF先輩の排泄した”限りなく透明に近いイエロー”なる小水を洗面器に入れ、手洗いまで運搬させられた。ただし、この洗面器がラーメンを炊く際使用されていたかどうかは記憶にない。

 

 部屋の暖房は、8畳敷きの部屋の中央に置かれた丸型石油ストーブのみであった。これは会食の折、プロパンのコンロが手配できないとき必須の調理台ともなった。朝の起床時が辛くないようにと、起床の半時間前にストーブに火をつけるのは下級生の役目であった。石油ストーブが燃え出すまでは芯を長めに出し、無事に着火したら徐々に芯を下げなければ、黒い煤が発生する。しかし、S君は寒さと疲れで着火後、すぐに布団に潜り込んで寝込んでしまった。朝、起床すると全員の顔が煤で真っ黒になっていた。お互いに黒人のようになった向かいの寮生を指さして大笑いしたが、そのとき、自分の顔も真っ黒になっているものを知るものはいなかった。隙間風が吹き放題の安普請のプレハブ寮が幸いして二酸化炭素中毒からS君も命拾いをした。

 

 冬の洗濯は、考える以上に辛かった。吹きっさらしの戸外での洗濯場での洗濯は、洗濯機が普及した今日、あまりないのではないかと思う。S君の洗濯回数も、毎学期1−2回程度で決して少ない方ではなかったが、冬の洗濯には絶えず頭を悩ませねばならなかった。そこで考え出されたのが、伝統の麗寮洗濯である。

 

 ストーブの上にバケツをのせ、水と洗剤と洗濯物を一度に入れてよく煮立て、棒切れでかき回す。部屋中、異様な匂いが充満するという期待しない効果があったが、綺麗になることこれに勝るものはない。ただし、この麗澤洗濯は別の予期せぬ効果をもたらした。それは頼みもせぬのに、勝手に他の衣類の色が移ってしまうことである。白いブルーフに靴下のブルーがサイケ調に彩色される。はなはだ迷惑であるが、氷水での洗濯を避けるには、なんとしても、麗明洗濯に限ると、必然的に結論はそうなった。

 

 冬の洗濯を頑強に拒む寮生も少なくなかったが、その一人、芝山君は、一枚のパンツを汚れ始めたら裏返しにして履き、溜まった下着から比較的着色度の少ないのを選んで着用し、ついに在学中一度も洗濯しなかったという強者であった。

 

 自分の洗濯物はしなかった芝山君であったが、上級生の下着の洗濯は拒否できなかった。名古屋の歯科医の息子で裕福な先輩Sは、毎日7色の派手なパンティを着替えていたが洗濯は芝山君の役目であった。部屋っ子の間でSさんが翌日履くパンティの色は何色であるかの賭けが始まった。芝山君はよく当て10円の賞金を得たが、それはSさんが彼を気の毒に思ってか、そっと教えていたからである。

 

 芝山君は、帰省時に、大きなダンボール箱を故郷への唯一の土産として母親に届けた。まったく、親孝行な息子であった!

 

その5 ああ、それが青春

 吉田拓郎は青春を定義してこう歌う。

 

 繁華街で前を行く いかした女の子を ひっかけること ああそれが青春、、。

 

 これまで寮生はまったく女性に縁がなかったが、学園に突如男女共学制が導入されて(といっても、男女別のクラス)20名足らずのし少数とはいえ若い女性が出現して、屏風山の麓は革命が起きたようにざわめきたった。

 

  女子寮は男子が容易に近づけないようにと、エリコの砦の発想を元に、売店の背後にある小高い丘の上に、やはりプレハブ方式で建てられた。

 

 これまでバンカラを謳歌してきた男子生徒であったが、この日を境に激変する。年中履いていた(瑞浪の街に出る時も、)長靴や、囚人を想起させる作業服はこの日を境に姿を消した。S君は、冬に就寝するとき寒さからの防護のために、寝押しと称して制服のまま寝たが、光った黒い詰め入りの制服はハンガーに吊るされ、勉強部屋となっているベニアの扉のロッカーに吊るされることになった。

 

 

 女子生徒が入ったといえども接触の機会は殆どなく、遠くで憧れの眼差しで見ているしかなかった。部屋では、女子生徒の人気投票がミスユ二バースの選考を真似て行われ、丁度、百恵と昌子が人気を二分したように、AさんとHさんに票が分かれた。S君はAさんに投票した。死ぬまでに一度はあの手を握ってみたいなと夢見たが、その夢が割合い早く実現した。運動会でフォークダンスを披露することになったからである。

 

 マイムマイムの民謡に乗って踊るフォークダンスは、男女が平行の一列の輪になって、順々に踊る相手が変わっていくのだが、Aさんが相手になったとき、S君の心臓は高鳴った。夢が叶ったのだった。卒業して10数年経つ今でも、イスラエルの民謡マイムマイムを聞くと、自然に体が動き始め、あのときの胸の高鳴りと、意外と温かかったAさんの手の温もりを、はっきり思い出すことができた。

 身近にいて、唯一大人の女性らしい香りを発する女性は黒川七栄先生であった。その憧れを表現するに余りに稚拙な生徒は、教室に入った七栄先生を盛んにいびったり、ニンニクで燻しだしたりしたが、どれも関心を引こうとする生徒の切なる愛情の表現であったが、七栄先生はそれに気付いていたであろうか?

 

 山本君などは、先生の婚約を知り、淡い夢がもろくも崩れ去り、男泣きにないたというエピソードが伝えられたいる。

 

 「先生、ブラウスの一番上のボタンが外れていていて勉強できません。」奥本君の発言に、微動だもせずボタンをはめた先生の毅然とした態度に、S君は感動した。

 

 

 女子生徒は遠い存在で、男子寮は依然として女気がなかった。やがて女性への思慕は文通という形になって現れたのである。卒業アルバムから、可愛い子から順に手当たり次第に手紙を出す。まるで手紙魔のようだ。

 

 三村という寮生のアルバムから選んだ女性には、「三村君から紹介された西島ですが、、、」と紹介されていないのに厚かましい書き始めで文通申し込みをした。当時、一人も文通相手がいないということは、寮生として最大の欠格のように考えられていたし、文通相手が多いということはカイショありともされた。

 

 しかしながら、数名あるいは数十名の相手をするとことは、かなりの時間と精神力を要し、もっぱら自習時間はそのために費やされるということも起ってきた。「みどりさん」宛ての手紙を「絹代さん」に送って面目を潰した奴も中にはいたようだが、ひどいのになると、どうせ書く内容は同じだとばかりに、カーボン紙を使って複写した手紙を出す出合いも出てきた。

 

 が、何ともいっても悲惨だったのは、上級生が下級生へのて手紙をこっそり読み、その内容を暴露して面白がったが、下級生はまったくプライドが傷つかれたりした。さらに、その手紙の中に可愛い女のこの写真でも入っていようものなら、勝手な理由をつけて最愛の文通相手を横取りする上級生もいた。

その6 ユニークな提案そして恐怖のスパルタ・ビンタ事件

 S君が二年生に無事進級し、一学期の部屋においてまったくユニークな提案が三年生によりなされた。名付けて「屁貯金」。つまり、放屁一発10円也を貯金し、これを寮費、会食の費用に充てようという案に全員双手を挙げて賛成したが、貯まること、貯まること。結局、この部屋では、寮費をすべてこれで支払い、幾度の会食を催しても、まだ余りが出たほどだった。

 

 三年生が、同じ一発ならばと数日便所に行かず、溜めに溜めての一発。「おい、全員集合」と声をかかける。訳もわからず集まってきた下級生に、

「へーい、俺の腰につかまれ!」と言い様に、自分の腰の周りにまきつかせ一発見舞った。音色といい、臭さといい、まったくすごいのを見舞われ、先輩の正座や、スパルタ体育にもなれ親しんできたS君も、さすがにこの一発には辟易し、帰省したくなった。

 

 S君が2年になって、麗明寮の東、職員住宅近くに待望の体育館が建設された。S君はまさか真新しい体育館が修羅場になろうなどとは夢にも思わなかった。

 その日は、有名なスパルタ教育で名を馳せたスパルタことI先生の体育の授業がある日であった。I先生は、まず事前に命令したように各自の体操着に名前が書いてあるか確認した。10数名は不幸にも、それを忘れたがために一列に並ばされ、罰として右端から一人一人への往復ビンタが加えられた。その場は凍りついたが、I先生は容赦なく猛烈な往復ビンタを続けた。

 運動部のエースでありながら体が小さくてポチと呼ばれたH君は、この往復ビンタで後方に数メートル飛ばされた。H君の耳は毀損して、その後長年聴覚障害に悩まされることになった。あの体の大きかった池田君ですら耐えられず倒れてしまい、鼓膜は破れてしまった。何人の鼓膜が破れたか記録はないが、この壮絶な思い出は、一生忘れることはないであろうとS君には思われた。

 I先生はその後退職されて、ヤクザの用心棒になられたとS君は風の噂に聞いたが真相は分からない。I先生の後を継いだのが、I先生の反対で根っから優しい岡村先生であった。岡村先生は、保健の授業も受け持っておられたが、”先生、白昼夢って何ですか?”と生徒に聞かれ、自分でも分からず”それはね、昼寝して見る夢ですよ!”という珍回答にS君は笑いを堪えるのに必死であった。

 岡村先生に代わってからは、罰にグランドをぶっ倒れるまで走らされたり、”二等兵物語”同様に往復ビンタに突如見舞われることもなくなってS君は心底ほっとしたものであった。このビンタ事件は、赤痢事件ともに学園の公式の歴史には決して記載されることのない、そして生涯忘れることはない”歴史的出来事”であったとS君は確信している。

その7 寝ても起きてもオリンピック

 お隣の大国の収容所ほどではなかったが、萩原の寮には余り一般社会からの情報は入ってこなかった。それでも、新幹線の開通のニュースと10月10日から開催される第18回東京オリンピックのニュースは誰もが知っていた。

 

 S君も一生に一度かも知れないオリンピックはどうしても観たかった。が、当時、テレビは白黒でもとても高価な電化製品で、何台か職員住宅に置かれているだけだった。(カラーも数年前1日2時間ほどの放映が始まっていたが、小学校教員の給料が1万円そこそこなのに50万円近くしたので、普及にはほど遠かった。)その前から、鈴木先生宅は安月給にもかかわらず、腹を空かした寮生に、ご夫妻は精一杯のおもてなしをすることで知られていた。当然、S君の足は担任でもない鈴木先生宅に向いた。

 

 鬼の大松監督に率いられた東洋の魔女、体操の遠藤や小野夫妻、山下の月面宙返り、三宅の重量挙げ、柔道の中谷などの日本選手の大活躍に全生徒は熱狂したが、チェコスロバキアの体操選手ベラ・チャフラフスカにS君は深く魅了され、自習時間中もベラ選手の容姿と床競技の名演技が頭から離れなかった。

 

 その年の中間試験は、すべての関心とエネルギーがオリンピック観戦に注がれてしまい、S君の試験結果に大きな影響を及ぼしたのは言うまでもない。

 

その8 すわっ赤痢が発生!

 が、なんといっても忘れることのできない大事件に、麗澤瑞浪高校史に燦然と輝く赤痢事件があった。

 

 三学期もテストを残すのみ期待の春休みを前にして赤痢が流行しだし、3月12日には遂に学園全体が名実とも社会から隔離されてしまった。手持ちの資料によれば、最終的に141名が赤痢菌に侵され、隔離病棟(定時制2部の寮が隔離病棟にあてられた。)に入れられた。

 

 以後、実際に赤痢菌に侵され、隔離病棟に収容されたS君の日記から赤痢事件の部分を抜粋してみよう。この日記もS君と共に入棟していたという事実を思うとき、どこかの頁に密かに赤痢菌が生存し隠れている気がして、あまり頁に触れる気にならないが、勇気を奮いたたせて書いてみる。

 

 3月13日

 なる。病気になってしまった。赤痢だ!!隔離病棟に一歩入っただけでクレゾール臭くていやだ。完全に社会から見離された。

 3月14日

 入棟後一日目、体は好調。しみじみ味わう入棟生活。食事にはまいった。おかゆと梅干しとジャガイモ。これでもつのかなあ?

 

 松浦セル先生が慰問にきた。感染を恐れてか足で戸の開け閉めしていた。イヤだな。(数日後、運命の女神は松浦先生に背を向け、先生もこの病棟に隔離された。ー編集者注)

 

 S君の隔離病棟での十日間の記録は、食事の寮の少なさと、検便の結果と、暇を持て余したことがすべてである。

 

 特に検便の結果には一喜一憂し、病棟内の話題ももっぱら検便に絞られていた。隔離前は、寮生は自分の排泄した便の一部を木のヘラでマッチ箱に上手に入れ、それを毎日提出していた。隔離後は、尻の穴にガラス棒を突っ込む形で検便が行われたが、若い女性看護婦の前でパンツをずらし尻を突きだすS君の顔はなぜか紅潮していた。

 

 やがてS君も二度の検便に見事にパス。「万歳。刑務所を出た気分だ。」S君の気持ちはわからぬではないが、彼は以前刑務所に入っていたのだろうか?

その9 念願の最上級生

 赤痢事件も一段落し、S君も念願の最上級、三年生となり、麗明寮に君臨するのであるが、S君、一年生当時に憧れ思い馳せた三年生と、現実とのあまりに大きな違いに愕然とした。

 

 ”責任”この文字の持つ、とてつも大きな意味にS君も勝手が違ってしまった。三年生になったら、もう誰からも命令されることなく麗明寮に君臨できるはずであったのに、現実は寮の運営から下級生の躾まで、すべてが三年生の責任なのである。

 

 さらにS君にとっては、大学進学のためには全く将来に役立ちそうにもない受験勉強に打ち込まねばならない。S君の惑いにも察するにあまりある。

現にS君の日記にも新入生に「冷たい柔剣道場に約1時間座ってもらった。案外だらしなく参ってしまったようだ。我々が一、二年生の頃はこれ以上にやったと思うので、そんなに苦しいとはおもえないが、見ていて嫌になった。」と書いている。

 

 三年生になって、やっとS君も三年生の気持ちがわかったようだ。正座させても決して気持ちのよいものではないことを。できることなら、寮の運営やクラブ活動のリードや下級生のしつけは放っておいて、就職にしろ、進学にしろ、自分の進路にそった勉強がしたい。特に大学受験生にとっては、一分一秒が惜しい時期なのだ。どうしても能力のなさを、努力で補わならないわれわれなのだ。

 

 S君は必死に「責任」と勉強に励んだ。他方、自分の実力のほどを模擬試験のたびにいやというほど知らされた。受験生たちは、青年がゆえに悩み、ある時は自暴自棄に陥り、ある時はファイトを燃やし、寮での生活に残り少ない時間を費やした。

 それでも青春を燃え尽くせず規則規則の寮生活のなかで、燃え尽くせぬもやもやを胸に寮生たちは、深夜にサイクリングをしてみたり、寮を抜け出し一週間も十日間もヒッチハイクしていたり、また学校へも出ず、校則違反の罰則に、ペンキ塗りや花壇作りや薪割りに精をだした奴もいた。休学中、これ幸いにとお化け屋敷でアルバイトする孝行息子もいたし、卒業間際になって、無免許で車をゴルフ場地近くの田圃にわざわざ仰向けに入れてみたり、とにかく、いろいろと痛快なことをやってのけた。それもみな真顔でやってのけたのである。

 

 屏風山という広大な自然の懐で、いまにも崩れ落ちそうな麗明瞭はは。大きく育まれる野生児のような、しかしナイーブな青年たちを暖かく眺めていたのである。教師からみれば、憎々しい生徒も話し合えば、全く可愛い生徒ばかりで、実際、他校の生徒たちとは一風変わった憎めない生徒たちばかりであった。

 

 優等生も劣等生も一つの部屋で、雑巾バケツのラーメンをすすれば、瞬く間に相通じる何かがあったし、それが麗明寮のもつ魅力なのであった。そして、今なお、屏風山の山上の教訓のひとつ「大きな夢をもて」は、30路を迎えんとした年齢に達した今も抱き続けている卒業生も少なくない。

 

 話は少し横道にそれたが、S君は優等賞を勝ち取って麗明寮を巣立ち、無事に二流大学に入学したのである。思い起こせば、全く当時の麗明瞭は狂乱の寮であり、うかうか安楽に眠っておれない場所でもあったが、それはそれなりに有意義であったし、寮で多く友情に囲まれて暮らしたものだった。それはお互いの恥部をさらけ出した連帯感につながれた友情で、この麗明寮での友情は、この時期以後に生じる、いかなる友情よりも永続きする友情であると思う。麗明寮を出でて春風秋雨十一年、思い出すたびにこっそり覗いてみたい寮である。

              完

 

    麗澤瑞浪高校三期生 昭和52年(1977年)発行   

 卒業雑誌 ”通” 9号より

 

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               萩原から眺める屏風山